映像でのインタビューの要約(大口町歴史民族資料館 西松賢一郎 学芸員)
小口城と織田広近
小口城は、長禄3年(1459)に築城されましたが、築城したのは織田広近という武将です。応仁の乱の10年ほど前に築城されました。織田広近は、岩倉城を拠点とする城主織田敏広の弟で、この地方を治めていました。その当時の織田家は、いわゆる上四郡 (丹羽、葉栗、中島、春日井)、清洲織田氏の統治する下四郡(海東・海西・愛知・知多)の分割統治を行っていた時代です。織田広近は、岩倉方になりますので、上四郡の支配をしていた織田氏の系列にあたる人物として位置づけられています。
小口城を築城したあと、広近は木ノ下城を築城します。小口城と木ノ下城をあわせて、木曽川より北の美濃を牽制する目的で築城されたといわれています。そのあと広近はすぐに隠居してしまいます。小口城の近くの妙徳寺に「萬好軒」と呼ばれる隠居の庵をつくり余生を送りました。その間に徳林寺の再建も行うなど信仰に関わる活動をいろいろしたという話は伝わっています。
廃城から小牧・長久手の戦いへ
広近の隠居後、小口城は子どもや孫が経営するのですが、あまり資料は残っていません。その後、織田信長が尾張を統一する過程で小口城を攻めたと言われる記述が出てきます。その時の小口城は、織田家ではなく犬山城(木ノ下城を廃し築城)の 家老にあたる中島氏が城主となっていて、信長の攻撃に対しては中島氏が対峙しています。しかし信長は、小口城を一度に攻め落とすことが出来ずにその後、調略などにより小口城を陥落し廃城となり歴史の舞台から一時期、姿を消すことになりました。最後に歴史の表舞台に立つのは、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで秀吉方の出城として再利用された時です。
大口町の史跡紹介
大口町の歴史民族資料館の常設展示室は、前半と後半のブースに分かれており、前半が昭和20年代から30年代の大口町の暮らしを再現しています。後半は旧石器時代から近現代にいたるまでの資料を展示しています。大口町に御供所(ごごしょ)という 村があり堀尾吉晴はその村の出身の戦国時代に活躍した武将です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、松江藩(島根県松江市)の初代の 城主になった人物です。現在、掘尾史跡公園(堀尾吉晴屋敷跡)に関連したものが残っています。
裁断橋物語は、名古屋市の熱田区の精進川に架かっていましたが、明治末期に河川改修されたあと大正時代に埋立られました。 堀尾金助と母の出身地が大口町の御供所(ごごしょ)であったことから、平成8年(1996)に大口町に再現されました。
裁断橋物語ー豊臣秀吉の小田原北条征伐(1590)、当時18歳の堀尾金助は裁断橋で母に見送られ出征した。しかし金助は戦場で亡くなり 、それを悲しんだ母は裁断橋を二度にわたって修理し、橋の擬宝珠(ぎぼし)に銘文(日本女性三名文)を刻んだことで知られている。
関連人物紹介
織田広近
岩倉織田氏(伊勢守家)は、尾張上四郡(春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡)の守護代。織田広近は岩倉城主織田敏広の弟。岩倉織田氏(伊勢守家)は、尾張下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡)の守護代を務める清洲織田氏(大和守家)と勢力を二分していた。
織田敏広
室町幕府の管領斯波氏の家臣で尾張上四郡の守護代を務めた。応仁の乱(1467~1477年)では、尾張国守護斯波義廉に味方し西軍に加勢、東軍に参加した清洲織田氏(大和守家)と対立した。岩倉城を居城とした。
織田敏定(大和守家)
室町幕府の管領斯波氏の家臣で尾張下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡)の守護代。岩倉織田氏(伊勢守家)とは、敵対関係にあり尾張を二分する勢力であった。
清洲織田氏の三家老の一人、織田信秀(織田信長の父)は主家を凌ぐ勢力を持っていたが、家臣の身分のままで尾張国を直接支配することはなかった。信秀没後、織田信長が家督を継ぐと岩倉織田氏、清洲織田氏を滅ぼし尾張国の覇権を握った。
地図
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