沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」
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2010年9月17日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第6講 ねずみ坂・いたち坂 第2回「東陽通り」
山田才吉という希代のアイディアマンがいた。名古屋名物の守口漬は、彼の考案によるものだ。 才吉は宏壮建造物を建てるのが好きであった。彼が建造した東陽館、南陽館の名前をとり、宏壮建築に通ずる道は東陽通り、南陽通りと呼ばれた。俗名は、い...
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2010年9月10日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第6講 ねずみ坂・いたち坂 第1回「百メートル道路」
太平洋戦争の数度にわたる空襲によって、名古屋の街は壊滅的な打撃を蒙った。終戦直後の人口は、七十万人にも減少していた。焼失面積は三千八六〇ヘクタールに及んだ。 焼け野原と化した名古屋の街に、人々はバラック建ての家を建て、新しい生活を...
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2010年9月3日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第5講 鳥屋横町から藪の町 第6回「薮の町」
裏門前町通りを、南に進んでゆくと東別院に突きあたる。江戸時代、このあたりは薮がいちめんに生い茂っていた。人々は、この地を薮の町と呼んだ。 突きあたった地点の東側の地域は、土手町とよばれていた。もともと、この地には御手先組の組屋敷が...
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2010年8月27日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第5講 鳥屋横町から藪の町 第5回「牛長屋」
名古屋の幹線道路本町通りを、多くの旅人が往来した。旅人ばかりではない。外国からの賓客である朝鮮通信使も、本町通りを通って江戸に向かった。外国の使節を一目でも見ようと、本町通りに人々が押し寄せた。 朝鮮通信使の主だった高官は、性高院...
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2010年8月20日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第5講 鳥屋横町から藪の町 第4回「経堂筋」
畏れという感情が喪失して久しくたつ。幼時の頃、夕方、ひとり鎮守の森の前を通り過ぎる時、何か慄然とした感情にとらわれた。お寺の前を通り過ぎる時も同じだ。 八事の親類を訪問した時のことだ。同じ道を何度も、くり返し通るだけで、親類の家に...
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2010年8月13日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第5講 鳥屋横町から藪の町 第3回「赤福地蔵」
酒井順子のエッセー集『丸の内の空腹』(角川文庫)の中に、「銘菓を巡る出張」という、名古屋の名菓を紹介した一文がある。その一節に、赤福について、次のように書いている。 優秀な菓子が意外と多いのが、名古屋です。私は、学生時代まで...
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2010年8月6日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第5講 鳥屋横町から藪の町 第2回「手たたき稲荷」
門前町と橘町の堺、本町通りより東側を菖蒲川町といった。この町は、江戸時代には釜屋横町と呼ばれていた。むかし、北角に釜屋何某という金持ちの酒屋があったので、そのような俗名がついたのだ。 菖蒲川町は、明治になってソブ川町と呼ばれるよう...
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2010年7月30日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第5講 鳥屋横町から藪の町 第1回「鳥屋横町」
明治四十三年の関西府県連合共進会の開催を機に、名古屋の街は、すっかり変貌した。会場の鶴舞公園に向けて、何本もの道路が整備された。大須の町を分断するようにして開通したのが岩井通り線だ。 古い大須の町並みが取り壊されて、新しい大通りが...
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2010年7月23日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第4講 おからねこから七本松 第6回「七本松」
昔は旅立つ人に贈る餞別のことを「馬の鼻向け」といった。この言葉からもわかるように、馬と旅とは切っても切れない関係にあった。大きな街道では、宿駅に馬を備えて旅人の便宜をはかった。 街道沿いには、旅に欠かせない馬の保護神として、馬頭観...
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2010年7月16日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第4講 おからねこから七本松 第5回「大池」
大池は前津の水田約十五町三段余の灌漑用水として元禄期(一六八八~一七〇四)にすでに開削されている。別名麹が池とも言った。池の面積は六千坪、周囲四町五十七間三尺、縦九十間、横六十七間あった。野中にある大きな池、そしてその池は麹のよう...