薮の町
裏門前町通りを、南に進んでゆくと東別院に突きあたる。江戸時代、このあたりは薮がいちめんに生い茂っていた。人々は、この地を薮の町と呼んだ。 突きあたった地点の東側の地域は、土手町とよばれていた。もともと、この地には御手先組の組屋敷が何軒も建っていた。
御手先組とは、藩の下級役人のことである。下級役人の役宅は、文政年間(一八三〇~一八四五)東別院の火除け地として、取り払われてしまった。御手先組は、古渡町に引っ越してゆく。役宅の跡地は町屋となった。町屋の南境に土手が築かれた。土手町という町名は、この地にあった土手にちなんで付けられたものだ。
薮の町、土手町が町家となったのは、貞享四年(一六八七)のことだ。この薮の町に、持福屋というあいまい宿があった。薮の町の北側には、梅香院がある。 梅香院について、『金鱗九十九之塵』は、次のように記す。
当院は、往古下津村正眼寺の末寺、中島郡奥田村に在し、観蓮寺と云し禅窟を、貞享元申子年に此地に引寺に被仰付、則梅香院と改号なし、同三寅年、寺地拝領して堂宇創建なりにき。又其節寺社奉行所より被下し御証文も有之。其後元禄十六年末七月十三日、瑞龍院様の御六男但馬守友著卿の御息女見世姫君様早世し給ひて奉レ葬二当寺一なり。
貞享三年に、この地に寺を創建したのは、尾張藩主の光友だ。光友は、側室の死を悼み、寺を建立し、側室の法号梅香院を寺号とした。 梅香院の門前にできた町筋は、梅川町と呼ばれた。この梅川町で、天保十二年(一八四一)十一月十二日、世間を震撼させる出来事が起こった。
梅川町のぶたのおまつの所に、二十をすこし越したばかりの美人がいた。名をお庄という。お庄に橘町の古道具屋、鳴海屋勘蔵という五十年配の大酒のみが首ったけとなった。隣の髪結い女を仲にたて、お庄を愛人とする交渉をした。交渉は成立し、近所のものを呼んで飲めや歌えの大騒ぎをする。勘蔵は気持ちよく眠ってしまった。招かれた客のひとりに指物師の伊三郎がいた。
勘蔵が寝ているすきに、伊三郎とお庄は、手に手を取りあって、勘蔵の家をぬけだし、茶屋町の山田屋お高の家にかけこむ。 眠りから覚めた勘蔵は、必死になってお庄の行方をさがす。山田屋に来た勘蔵は、お高の止めるのも聞かず、お庄を探しに二階にかけ上ってゆく。そうはさせじとお高は、勘蔵の裾を引いて離さない。勘蔵は、お高を梯子段からつき離す。お高は、うち所が悪く死んでしまった。
勘蔵は、すぐにかけつけた役人に取りおさえられる。お高の死骸は、勘蔵の取り調べが終るまで動かすことができない。そうこうしているうちに何匹ものねずみが出てきて、お高の死骸を食い荒してしまった。 お高は、妾をして旦那からしぼりとった金で、高利貸しをして、貧乏人を苦しめていたので天罰があたったのだと世間の人は噂した。
梅香院の北、日置と前津の堺にあたる地は堺町と呼ばれた。堺町と梅川町の間には、享保・元文年間(一七一六~一七四一)には陰間茶屋があった。
地図
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