沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」
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2010年4月30日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第2講 豊竹小路から地獄谷 第7回「地獄谷」
若宮通りを越して、大須に入る。西側にテレビ愛知のビルが見える。本町通りを右に曲り、テレビ愛知に向けて歩いてゆく。いかにも大須の裏通りといった感じの通りだ。仁王門通りや万松寺通りにみられるきらびやかな店は一軒もない。落着いた、この地...
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2010年4月23日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第2講 豊竹小路から地獄谷 第6回「水天宮通り」
北野天満宮の前の道を北に進んでゆくと行き止まりになる。行き止まりになった所に、古い門が残っている。清安寺の焼け残った門だ。門と呼ぶより、玄関という表現の方がふさわしいかも知れない。寺の門といういかめしい感じは、この門からうけない。...
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2010年4月16日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第2講 豊竹小路から地獄谷 第5回「たぬき山」
ホームレスが長いこと占拠していて、中に入ることを躊躇せざるを得なかった浪越公園が、平成十七年度に整備され、面目を一新してお目見えをした。 浪越公園は、明治十二年三月、名古屋最初の公園として開場した由緒ある公園だ。高瀬果之助、...
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2010年4月9日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第2講 豊竹小路から地獄谷 第4回「元新地」
大須の町の中に、北野天満宮という小さな小さな神社が建っている。境内は狭いが、由緒は古い神社だ。もともとは、大須観音と同じく、現在の羽島市の長岡庄大須の地にあった神社だ。醍醐天皇(八九七年即位、在位三三年)の勅建の神社で、京都の北野...
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2010年4月2日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第2講 豊竹小路から地獄谷 第3回「浅間横丁・うまいもの横丁」
頑丈な防火壁に囲まれているために、戦火を免れた神社がある。大須の富士浅間神社だ。防火壁は神社の南側に、今も赤茶けた色で神社を護るかのようにして建っている。 富士浅間神社が、現在の地に創建されたのは明応四年(一四九五)のことだ...
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2010年3月26日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第2講 豊竹小路から地獄谷 第2回「浅間通り」
大須観音通りは、かつては浅間通りと呼ばれていた。浅間神社にちなんで付けられた名前であることは言うまでもない。街路灯も神灯式のものが使われていた。 大須は、昼と夜の顔を持っている。昼間は地方から大勢の人が大須の観音様にお参りにくる。...
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2010年3月19日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第2講 豊竹小路から地獄谷 第1回「豊竹小路」
どんな細い道であっても、俗名で呼ばれる道には、俗名にまつわる由来がある。伏見通と大須通の交差点を東に向かって歩いてゆく。一本目の大須観音にゆく道は、金沢町の通りで、俗名は付いていない。今は仁王門通で商売をしている煎餅の朝日軒は、か...
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2010年3月12日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第1講 西大須 第6回「堂裏」
現在の大須観音は南向きに建てられている。大須観音の入口にあたる仁王門も南向きだ。しかし、仁王門通りは東西の通りである。戦火により焼失するまで、仁王門は東側にあり、大須観音も東向きに建てられていた。 大須は、伏見通りにより東西...
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2010年3月5日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第1講 西大須 第5回「旭廊」
名古屋に初めて傾城屋(遊郭)が公認されたのは、七代藩主の宗春の治政下の享保十六年(一七三一)である。『名古屋史要』は、宗春の治政を次のように記している。 宗春は名古屋に取りて一時期を画したる君主なり。政治上に於ては解放主義と...
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2010年2月26日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第1講 西大須 第4回「紫川」
名古屋案内の冒頭に紫川が紹介されているのは、紫川が名古屋を代表する川であり、名古屋人に親しまれている証拠だ。しかし、その紫川は名前のような澄んだ清らかな水が流れる川ではない。「泥水悪水をチョロチョロと漂はせて居る」川だ。明治の名古...