沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」
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2010年7月9日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第4講 おからねこから七本松 第4回「卯津木坂」
記念橋の一本南、新堀川に架っている橋が卯津木橋(現 宇津木橋)だ。下前津と鶴舞公園とをつなぐ道は、幹線道路大須線の脇道としていつも車の往来が激しい。卯津木橋の上も、たえず車が走っている。この橋の名前が卯津木橋と名づけられたのは、橋...
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2010年7月2日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第4講 おからねこから七本松 第3回「死に堀川」
新堀川端に二つのお地蔵さまが鎮座している。一つは記念橋と宇津木橋の間、乗円寺の境内にあるものだ。もう一つのお地蔵さまは宇津木橋を越え、南に少し歩いていくと道端に建っている。二つのお地蔵さまは慈悲にみちこまなざしでいつもむかえてくれ...
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2010年6月25日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第4講 おからねこから七本松 第2回「幽霊坂」
卯木坂を上ってゆくと南側に甘酒長屋がつづく。甘酒長屋の突きあたりに天王社がある。卯木坂をへだてて、その向い側にあったのが酔雪楼だ。 酔雪楼は、文政(一八一八~一八三〇)の頃料亭となり、四季を問わずいつも風雅の士で賑わっていた。天保...
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2010年6月18日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第4講 おからねこから七本松 第1回「おからねこ」
社伝によると、祭神は奈良の三輪にある大神神社に祀られている大直禰子命であるという。「おからねこ」と呼ばれた由来について『尾張名陽図会』には、 むかしおからねこといふ所は鏡の御堂の事なり。鏡の御堂とて至つて古く荒れはてし堂あり...
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2010年6月11日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第3講 矢場地蔵から隠れ里 第6回「隠れ里」
裏門前町通りの一本東の小路が御深井小路と呼ばれていた通りだ。 御深井といえば、名古屋城の北、今は名城公園となっているところだ。江戸時代、その地は御深井の庭とよばれた広大な庭園であった。その御深井の庭に祀られていたのが、御深井観音だ...
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2010年6月4日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第3講 矢場地蔵から隠れ里 第5回「新天地」
俗名は、その街の様相をたくみに表現したものだ。時の流れとともに俗名は生まれ、時の流れのなかで消えてゆく。新しい大須の街の俗名の一つが、アメ横だ。 一時期、大須の街は寂れていた。その大須の街が賑やかになった要因の一つは、万松寺にアメ...
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2010年5月28日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第3講 矢場地蔵から隠れ里 第4回「信長小路」
信長小路と呼ばれた通りがあった。本町通りと裏門前町通りの間、赤門通りと万松寺通りにはさまれた道だ。 昭和八年の住宅地図をみてみると、本町通りに面して、この道の北側も南側も空地になっている。北側は二軒民家がつづき空地、南側も同じく二...
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2010年5月21日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第3講 矢場地蔵から隠れ里 第3回「熊胆丸小路」
江戸時代、広小路を越えて本町通りを歩いてゆくと、さまざまな動物に出会うことができた。『正事記』には、万治三年(一六六〇)の大火の前には、広小路より南の地域に狼が出没したとの記事がある。本町通りに姿を現す動物は、人を襲う動物ではなく...
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2010年5月14日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第3講 矢場地蔵から隠れ里 第2回「赤門通」
赤門通りの由来について、昭和十五年刊行の『裏門前町誌』のなかで青山市太郎は、次のように記している。 多年の懸案であった三輪町線区画整理組合も成立した。これは、最初十数年前商品陳列館の東門よりの通りがなくて不便であったのが原因...
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2010年5月7日
沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第3講 矢場地蔵から隠れ里 第1回「矢場地蔵」
矢場地蔵とは俗名であって、正式には徳寿山清浄寺という。『尾張年中行事絵抄』は、俗名の由来について次のように記している。 ここを矢場と呼事は、世に名高き星野先生の通し矢を御覧のために、京の三十三間堂のさまをうつせし其堂形ありて...