名古屋鮓物語

【動画】名古屋鮓物語

華の名古屋の碁盤割
①江戸時代
②明治10年
③明治20年/30年代
④明治末期/大正
⑤昭和初頭
⑥昭和33年
⑦現在の碁盤割
⑧御園通
⑨広小路物語
⑩広告で見る四区時代
⑪名古屋鮓物語
鮓づくりとの出会い

東鮓の初代横井清七は、1860年の初頭に江戸に修行に行きました。親戚が横浜で貿易商をやってたので、一旗揚げるためイギリスと貿易する会社で勉強しようと思い横浜にゆきました。ところが貿易商の近くに御鮓屋さんがあって、そこで鮓を食べたらすごく旨かった。貿易を勉強するより、鮓の作り方を学ぼうということになりました。貿易商をやめて鮓屋に修行に入りました。七、八年そこで修行をして、鮓づくりを 総合的に学びました。

名古屋初の鮓店開業

当時、名古屋では煮物や焼き物はありましたが、鮓をたべる習慣はありませんでした。初代横井清七は名古屋で初めて、酢味のご飯に、伊勢湾で獲れたコノシロとか小鯛、コサバ酢じめにして握って販売しました。江戸前とは、江戸の前で取れた魚で作ったものを意味しますので、伊勢湾で獲れたものを鮓にすれば名古屋前というのが本当です。「江戸前、江戸前」と言ってる鮓が沢山ありますが、あれは嘘になります。東京からわざわざ魚を持ってきて鮓にしているわけではないので、江戸風という言葉とごっちゃになって使われているように思われます。大阪では周辺でアナゴが良く獲れるので、アナゴを炊いてタレをつけた押し寿司や巻きずしが盛んです。名古屋へ帰ると、人通りが多い所に屋台をでして鮓屋を始めました。店舗を構えたのは明治3、4年の頃です。明治5年(1872年)には、2店舗目を出しています。

御園座発展とともに

明治29年(1896年)、御園座が開場しました。東鮓と御園座との縁は深く、二代目の横井清次郎に御園座の食堂部の運営を任されることになりました。材料とか器などをスムーズに運搬するために、人が一人、二人通れる業務用トンネルを作って行き来していました。私も現物を見たことがあります。現在の松島書店さんのあたりにありました。

向陽館の百間廊下

鈴木バイオリンが別荘として使用していた土地を山ごと買って、その頂上に宴会場(向陽館)をつくり、その周辺の山腹に小さな調理場と座敷を備えたバンガロー風の建物を配置し、そこを廊下でつなぎました。「東鮓の百閒廊下」と呼ばれ名をはせました。しかし、昭和18年、戦時下の企業整備令で強制的に徴用、陸軍の司令部となったことで、アメリカ軍の空襲目標となり惜しくも焼失しました。

敗戦からの復興

戦後は、広小路の本店を中心にして、消費者が持ってきたお米の対価として鮓を渡すといった、統制経済化での物々交換スタイルでの営業となりました。私が物心ついた昭和20年代後半には、いまでは想像できませんが御園座周辺は大変な繁華街で、東鮓本店の多くのお客さんでにぎわっていたのを覚えています。

東鮓本店の歩み

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