慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康は関ケ原の戦いに勝利した。 当時の尾張地方の首府は清洲(現清須市)にあり、関ケ原の戦い後は家康の四男松平忠吉が領主を務めていた。忠吉は知多郡で湯治をおこなったが28歳で夭逝した。家康は甲斐の領主であった徳川義直を尾張藩に転封した。家康は大阪の豊臣氏との争いを想定し、尾張藩の拠点を清州から移転することを考えた。清州は低湿地で水攻めに弱く、また、大量の軍隊が駐屯するには手狭であった。移転先はさまざま検討されたが、清州の東方の名古屋台地が選ばれた。
名古屋台地の北端に名古屋城が築かれ、その南側を京にならって碁盤の目に区画して町人の住居とし、碁盤割と呼んだ。碁盤割は、東西に十一列、南北に九列の正方形に区画され、その周辺を武家地、寺社地を囲むように設計された。その中心を、名古屋城から熱田に南北に貫通する本町通が通っている。碁盤割内の本町通りの両側には、名古屋を代表する商家が軒を並べていた。また、美濃路と本町通が分岐する、現在の伝馬町通本町交差点周辺は、美濃路の名古屋宿になっており、伝馬会所や高札場もあり碁盤割の中心地となっていた。
碁盤割の南端は、三間(5.45m)幅の堀切筋が東西に通っていた。万治3年(1660年)、碁盤割の北西片端筋から出火した炎は、伊吹おろしにあおられてまたたく間に燃えひろがり、碁盤割の9割を焼き尽くす大火となった。二千軒を超える家屋が焼失し、火勢は碁盤割の南端の堀切筋を超え類焼した。二代藩主徳川光友は、堀切筋(久屋町~長者町間)を北に広げることを決意した。堀切筋は十五間(約27m)に拡張され広小路と名付けられた。拡張された広小路は名古屋城下の名所となってゆく。