沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第2講 豊竹小路から地獄谷 第1回「豊竹小路」

豊竹小路

創業時(大正10年)の朝日軒

創業時(大正10年)の朝日軒

どんな細い道であっても、俗名で呼ばれる道には、俗名にまつわる由来がある。伏見通と大須通の交差点を東に向かって歩いてゆく。一本目の大須観音にゆく道は、金沢町の通りで、俗名は付いていない。今は仁王門通で商売をしている煎餅の朝日軒は、かつてはこの通りの南西角にあった。

二本目の道は、豊竹小路だ。この道を豊竹小路と呼ぶのは、豊竹稲荷が祀られていたからだ。仁王門通りに面して、豊竹小路の東側に文明館という古い映画館があった。文明館の裏手は草津温泉という銭湯だ。銭湯の横に閑所があり、そこに豊竹稲荷は祀られていた。稲荷ができたのは、明治の終わり頃であったという。

現在、仁王門通商店街で営業つづけている朝日軒

現在、仁王門通商店街で営業つづけている朝日軒

現在の豊竹小路は、さまざまな職業の人が生活をしている道だ。 大正時代の豊竹小路は、東側に新朝日、松いづみ、若ざさやと続き、西側は鈴蘭屋、新末広と続く芸者置屋が軒並みに並んでいた。唯一の例外は、加藤回春院だ。

加藤回春院は泌尿器科の病院で、場所柄だけに治療を受けにくる患者は多かったという。 なぜ、豊竹小路は、加藤回春院を除いて芸者置屋が軒を並べていたのか。それは、七ッ寺の南側に睦連があったからだ。 睦連について早川徳三郎『大須繁昌記』は、次のように記す。

廓内では女郎屋の楼主達が主導権を握って芸者連中を圧迫するというので廓連から分離して七ッ寺の南側に結集して睦連として発足したのが明治二十八年一月のことだ。福田家甚鍵、笹家小正、荒川ふく、清水家てい、泉家よね、其の他で総勢二十余名だった。

睦連を結成したなかで、福田家甚鍵は、甚句の名手として知られている人だ。肥満した体に化粧廻しを締め、土俵入の真似をしながら歌う角力甚句は、たいへんな評判をよんだ。 この豊竹小路に、竹本二葉太夫という盲目の義太夫語りが住んでいた。幼くして、眼を病んだ二葉太夫は芸で生きるしか、自分の道はないと思い、来る日も、来る日も大須観音の石段に座り義太夫の練習を重ねた。苦労は実り、豊竹小路に家を構え、何人かの弟子をとった。その弟子のなかの一人、睦連の芸者、のぶを娶った。大正十二年のことである。

大須観音の仁王門越しに見る豊竹小路

大須観音の仁王門越しに見る豊竹小路

今の豊竹小路を歩いてゆく。古くから、この地で商売をしている食べ物屋が二軒ある。東側にあるのが、とんかつのとんまだ。地元の人たちが贔屓にしている店だ。 西側にあるのがばば天だ。明治二十五年の大須の大火で焼失した五重塔の焼跡の基壇から屋根をさし出したテントばりのてんぷら屋を出したのばば天のはじまりだ。爺さんと婆さんと二人で始めた店だが、あげるのは婆さんが専門なのでばば天の名が生じた。明治三十六年頃のことだ。

現在の豊竹小路。奥に見えるのが大須観音の仁王門、右手にとんかつのとんま

現在の豊竹小路。奥に見えるのが大須観音の仁王門、右手にとんかつのとんま

地図


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