沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第4講 おからねこから七本松 第2回「幽霊坂」

幽霊坂

酔雪楼(尾張名所図会)

酔雪楼(尾張名所図会)

卯木坂を上ってゆくと南側に甘酒長屋がつづく。甘酒長屋の突きあたりに天王社がある。卯木坂をへだてて、その向い側にあったのが酔雪楼だ。 酔雪楼は、文政(一八一八~一八三〇)の頃料亭となり、四季を問わずいつも風雅の士で賑わっていた。天保年間(一八三〇~一八四四)魚の棚の旅亭大惣が、この楼を経営するようになり、いっそう繁盛するようになった。

前津一の眺望をほこる、この楼からは遠く三国山、恵那山が眺められ、手前には八事の山の裾野が眼前に広がっていた。前津に住む張月樵、小島老鉄はいうまでもなく、多くの文人墨客が、この楼に集い絶佳の眺望を楽しんだ。 天保三年、当時の著名な俳人が酔雪楼に集い、出された料理の品々を題材として即席に句を詠む会を催した。そのなかの一、二を紹介しよう。

御膳  一雨にけっそりとへりし雪の山  梅裡
吸物  手加減にひときは澄やいかのぼり  桃蔦
大平  一面に湯気たつ池や霜の朝  我竟

若宮神社の宮司であり、歌人でもあった氷室長翁も酔雪楼で

おもしろく成まで物の淋しきは前津の里の秋の夕暮

という歌を詠んでいる。

明治時代になり、時の流れにはかてず酔雪楼は廃絶する。酔雪楼にかわり、新しい料亭香雪軒が登場する。場所は上前津から東に坂を下り、北側にあった。 香雪軒について『名古屋案内』は、次のように記している。

鼻を撲つのは脂粉の香か、頬を叩くは解語の花吹雪か名実共に粋な香雪軒、その昔、一躍桂侯爵夫人の玉の輿に乗ったかな子さんはこの家の前身木村常次郎の養女で、今の古橋およし姐さんの手に渡ったのは明治三十五年一月。 料理店兼旅館として、泊り込みお誂向な、雑踏を離れた閑静の料境、爪弾かなんかでしんみり遊ぼうとするには、屈境の巣籠場所、昔も変らぬ贔屓筋の多いのも怪しむに足らぬ。調理は名古屋式の通な所を抜き、舌に泌む味のあるのは勿論、庭園も座敷も余裕のある立派な結構、構えの堂々とした点は、中京割烹店の随一である。

大須の浪越公園にあった料亭松岡支店の経営者木村常次郎が、香雪軒を開業したのは明治十七・八年頃のことだ。木村常次郎の養子かな子が桂太郎に見初められたのは、明治二十四年第三師団長となり、彼がしばしばこの料亭に通い出してからだ。後にかな子は、桂太郎と結婚をする。

明治の高官に見初められたのは、香雪軒のかな子だけではない。香雪軒の東向いにある花新という芝居の大道具、小道具を作る店の長女すまも、幕末紅葉屋事件で名をはせ、後に司法大臣となった田中不二麿の長男阿歌麿に嫁いでいる。

瑞穂区石川橋の近くに暮雨巷がある。暮雨巷は俳人久村(加藤)暁台が住んでいた草庵だ。暮雨巷は暁台の付けた舎号であり、広大な敷地は竜門園と呼ばれていた。松村呉春や与謝蕪村も、しばしばこの園に遊びに来た。ある日のこと、遊びに来た蕪村に、襖絵を描いてくれるように暁台が頼んだ。蕪村はすばらしい眺めを眼にして何も描けず、わずかに引手の周囲に点画を描いたのみという。

竜門は明治になり鈴木摠兵衛の所有となる。摠兵衛をひっきりなしに客が訪れるので、いつしか竜門は夜の商工会議所と呼ばれるようになった。 戦火により竜門は壊滅したが、暮雨巷は石川橋に移築されていたので、戦火をまぬがれた。 竜門のあった地は、香雪軒と道をへだてた南側、現在の愛知マツダの付近一帯である。

上前津から東に下る坂は幽霊坂と呼ばれていた。「幽霊の正体みたり枯尾花」ではないが、この坂の幽霊は、白い着物をしまい忘れて、風になびいているのを、遠くから見た人が幽霊を見たと騒ぎ、いつしか幽霊坂といわれるようになった。