地獄谷
通りをはさみ北野神社の前に小さな祠が建っている。中には古い観音が祀ってある。誰が、なんのために建てたのだろう。北野神社にくるたびに疑問に思っていた。通りがかりの地元の婦人に尋ねてみた。「この辺りは、昔、遊廓がありました。病気で非業の死を遂げた遊女もいました。遊女の死を悼んで建てられたのが、この祠です。今でも、私たちが、このお堂を守っています。」
婦人の言われたように、大須観音の北、大光院の西、水天宮の南の地域は、旭廓ができるまでは遊廓があった地である。元新地があったので、日出町の地域を元新地と俗名で呼んだ。日出町には地獄谷と呼ばれる地があった。『大須繁昌記』には「地獄谷とは日出町の東北部、水天宮東、大光院西裏の低地を言ったものだ」と場所を特定している。山田秋衛は、註を次のように記している。
ここの住人は香具師。屋台店屋。紹介人(芸娼妓)。大道芸人。売春女。女遊芸師匠等が九尺二間の数十戸のへの字長屋に群居して、普通人は一寸足を踏み入れることのできぬ一画であった。戦前頃から少し改善されたが、しかし魔窟といった感じはいつまでも残っていた。
これは、さながらゴーリキーの『どん底』の世界だ。『どん底』を原作とした黒澤明の映画の場面が浮かんでくる。吹きだまりの中から、なんとかぬけ出したいともがく人々のくらす崖の下の長屋。それは地獄のなかでくらす人々を描いた映画であった。地獄谷のあった地は、テレビ愛知の西側だ。今も、やはり通りが低くなっている。
地獄谷のあった地から、北野天満宮にもどる。天満宮は大須観音と同じく、羽島市の大須に残っていた。後醍醐天皇の勅命によって建てられた古い神社だ。慶長十年、洪水で流失、慶長十七年に徳川家康の命により、羽島より遷り現在の地に再建された。天満宮の石柱を調べてみると、遊廓から寄進されたものがある。遊女たちが、この神社に薄幸の境涯をぬけ出たいと願ったことであろう。人知れず百度石に願をかけた遊女もいたかも知れない。遊女が参る神社は天満宮だけではない。今はビルに変わってしまったが水天宮も、人々の信仰の厚い神社だ。水天宮は安産の神様で、ここに腹帯を受けに来る女性が戦前に多くいて、賑わったという。
地図
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