下街道 春日井市

 春日井市の中心部を通る下街道 

春日井市の中心部を通る下街道

下街道(名古屋市~中山道大井宿)
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勝川周辺

鎌倉時代、この勝川あたり一帯は「山田庄」といわれ、小幡に領地をもつ豪族である山田氏が支配していた。
何代目かの当主にあたる山田重忠は、承久三年(1221)に起きた「承久の乱」で後鳥羽上皇に味方し官軍の大将として奮闘、朝敵の北条義時の大軍と京都で戦い敗れ弟とともに自害した。信心篤く、母のために無住国師を招き長母寺を建立した。また、死を免れた山田重忠の弟山田左衛門明長は後年、子である無盡道證禅師(無住国師の高弟)に長母寺の弟寺として地蔵寺を開山させた。地蔵寺は大正元年(1912)に春日井市大和通1丁目に移転され地蔵池懐古碑が残るのみである。
地蔵ケ池公園北にある勝川天神社は、無盡禅師が正和2年(1313)に創建したと伝えられる学問の神、菅原道真公がまつられている。
地蔵川を渡り500mほど行った国道19号の左手に長谷川邸がある。
文化年間(1804-1817)このあたりには、茶屋を始め十数件の旅籠が軒を連ね賑わっていた。長谷川邸は屋号を住吉屋と称して旅籠の中でも規模の大きなものであった。文政期における宿屋営業の記録が残っている。
長谷川邸の東北にある太清寺はその昔、醍醐山龍源寺と呼ばれた。小牧長久手の戦いで小牧山を出発した徳川家康は、龍源寺内の東方の阿弥陀堂に休憩後、戦支度を終えたのち庄屋の長谷川甚助を呼び、庄内川について聞いたところ「徒歩にて渡れる徒渉川、かち川にございます」と応えたという。家康は戦を前にして勝つ川とは縁起がよいと喜んだと言われている。
長谷川邸の北に札の辻道標跡があり、そこから下街道は右に折れ進む。下街道の北側に国道19号を見下ろすように愛宕神社古墳がある。神社の前を通りJR東海勝川駅方面に進む。街道の東側には勝川遺跡、町田遺跡などが 点在し古代からの繁栄を偲ばせる。
街道から2kmほど東側の庄内川の近くに小野道風の生誕誕生伝説地のひとつ松河戸町があり、三跡の一人、小野道風の偉業をたたえた全国でも数少ない書専門の道風記念館がある。隣接する巨岳山観音寺は曹洞宗の寺院で、境内には小野道風の像が立っている。


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  • 勝川の渡し

    勝川の渡し

  • 勝川天神社

    勝川天神社

  • 勝川天神社本殿

    勝川天神社本殿

  • 太清寺

    太清寺

  • 太清寺解説

    太清寺解説

  • 長谷川邸(屋号 住吉屋)

    長谷川邸(屋号 住吉屋)

  • 長谷川邸解説

    長谷川邸解説

  • 愛宕神社古墳

    愛宕神社古墳

  • 地蔵寺

    地蔵寺

  • 道風記念館

    道風記念館

  • 小野道風公像

    小野道風公像

  • 小野道風解説

    小野道風解説

  • 観音寺

    観音寺

  • 観音寺

    観音寺

春日井市役所周辺

下街道と平行している国道19号の西側、春日井市立中央公民館の敷地内に尾張藩御浜御殿の門が移転されている。御浜御殿は、寛永元(1624)尾張藩初代藩主徳川義直が造営した尾張藩の迎賓館、東西に置かれていた。明治時代になって建物は壊された。
隣接したところに移転された「四つ建て」民家は、江戸~明治初頭の自作農の標準的な母屋を中央公民館に移築したものだ。尾張地方の形式を今に伝えている。
下街道に戻り東に進むと左手に油茂商店の店舗が見える。江戸時代からの油屋で、塗屋造りの重厚な店構え。菜種から油を絞り、油壺を並べて売っていた。
秋葉山常夜灯を左手に見て、進むと二階建ての塗屋造りの風格ある店構えの蔦屋。江戸時代から酢の醸造や製油などを行っており、大正頃からは、酒・米・麦・肥料などの販売をしていた。 春日井市立郷土館は、江戸時代末期に酒造家・飯田重蔵が建てた離れ座敷。その先にある観音堂には、馬頭観音、西国三十三観音や他に八体の石仏が祀られている。


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  • 慈眼寺

    慈眼寺

  • 尾張藩御浜御殿の門(柏原町1丁目)

    尾張藩御浜御殿の門(柏原町1丁目)

  • 御浜御殿の門解説

    御浜御殿の門解説

  • 「四つ建て」民家(柏原町1丁目)

    「四つ建て」民家(柏原町1丁目)

  • 「四つ建て」民家 

    「四つ建て」民家

  • 「四つ建て」民家解説 

    「四つ建て」民家解説

  • 油茂商店

    油茂商店

  • 秋葉山常夜灯付近

    秋葉山常夜灯付近

  • 秋葉山常夜灯

    秋葉山常夜灯

  • 春日井市立郷土館 

    春日井市立郷土館

  • 春日井市立郷土館 

    春日井市立郷土館

  • 郷土館前の下街道

    郷土館前の下街道

  • 観音堂

    観音堂

  • 此の地の今昔

    此の地の今昔

密蔵院

JR東海春日井駅の西1600mほど東にある密蔵院は、鎌倉時代の嘉暦3年(1328)、慈妙上人によって開山された天台宗の古刹。寺運盛んな時代には全国に700余りの末寺を有し、寺域には 塔頭三十六坊、3000人を超える修行学侶がいたと伝えられている。
境内には隆盛を偲ばせる国指定重要文化財多宝塔が残っている。また、国指定重要文化財である木造薬師如来立像をはじめ、指定文化財は29件にもおよぶ。


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  • 密蔵院

    密蔵院

  • 密蔵院解説

    密蔵院解説

  • 密蔵院の伽藍配置

    密蔵院の伽藍配置

  • 密蔵院本堂

    密蔵院本堂

  • 密蔵院多宝塔

    密蔵院多宝塔

  • 密蔵院開山堂

    密蔵院開山堂

東名春日井インター付近から中部大学付近

東名高速道路の高架下をくぐり大泉寺町に入ると右手に尾張藩士小野沢五郎兵衛が隠居所として建てた退休寺の山門が見える。
五郎兵衛は二代藩主光友公のおもり役を務めた。街道の左手にある諸人助けの井戸は、小野沢五郎兵衛が水の便が悪く難儀をする旅人や地元の人々のために深井戸を掘り開放したもの。 石枠には南無阿弥陀仏慶安五年二月施主小野沢五郎兵衛と刻まれている。
街道の東側には、オセンゲ古墳、オフジ古墳が点在する。
常夜灯を過ぎ、右手に中部大学キャンパスを望むところに尻冷し地蔵が祀られている。
昔傷ついた武士がこの清水で傷の手当てをし乾きを癒していた時ここで討たれた事を哀れみ地蔵が建てられた。地蔵下の湧き水によりいつも濡れている事から呼ばれるようになったという。


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  • 助けの井戸

    助けの井戸

  • 退休寺と助けの井戸解説

    退休寺と助けの井戸解説

  • 退休寺

    退休寺

  • 常夜灯付近

    常夜灯付近

  • 尻冷し地蔵

    尻冷し地蔵

  • 尻冷し地蔵

    尻冷し地蔵

  • 尻冷し地蔵解説

    尻冷し地蔵解説

  • 尻冷し地蔵前の下街道 左手中部大学

    尻冷し地蔵前の下街道 左手中部大学

坂下町

尻冷し地蔵を過ぎたあたりで下街道は国道19号と合流、上野町を過ぎたあたりで右に曲がり坂下の町へ入ってゆく。
坂下村は一色村と和泉村が明治11(1878)年に合併して出来た。養蚕が奨励され昭和の初めまでは盛んに行われていたという。昭和33年(1958)に春日井市に編入された。
江戸時代、春日井市内には内津・坂下・勝川の三つの宿場があった。その一つ坂下宿は、旅籠や商い屋が両側に立ち並び、 下町中通り札辻の高札場、上町中通りの馬継ぎ場、下町南城の茶屋本陣といわれる伊勢屋、旅籠では下町三坂近くの藤屋、近江屋、上町の萬屋、米屋などがあった。
尾張初代藩主徳川義直公は文武に優れこの地で度々鷹狩りをされ館が作られた。掘っ建て小屋式の全く質素な建物であったが、坂下御殿と呼ばれた。 義直公没後、二代藩主光友公の時代に不要になり廃止されたが、村人の多くの労苦に感謝し街道に面した土地は免税地としたと伝えられる。
曹洞宗の萬寿寺は、明治十三年(1880)に明治天皇が京都へ御巡幸のとき内津から下街道を名古屋へ向かわれ、当寺において御昼食を召された。
内津川を渡った左手のにある御手洗(みたらし)は、日本武尊(やまとたける)が東征の帰途、内津から、西尾、明知を経て熱田の宮に進む途中、ここ神屋(かぎや)で休まれ、手を洗われたのがいわれである。かっては、清水が一年中枯れることなく湧き出ていたという。


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  • 坂下御殿跡

    坂下御殿跡

  • 坂下御殿跡解説

    坂下御殿跡解説

  • 萬寿寺(明治天皇坂下行在所旧跡)

    萬寿寺(明治天皇坂下行在所旧跡)

  • 明治天皇坂下行在所旧跡解説

    明治天皇坂下行在所旧跡解説

  • 御手洗(みたらし)

    御手洗(みたらし)

  • 御手洗解説

    御手洗解説

  • 坂下神社

    坂下神社

  • 坂下神社

    坂下神社

明知町から西尾町

神屋の道標・ 秋葉様常夜灯を過ぎ明知町に入る。
明知町は、東征の帰り道、日本武尊が、内津、西尾に続いてこの村を通りかかったとき、ようやく夜が明けて辺りが知れるようになったことから、明知の名がつけられたと伝えられている。
小高い丘の上にある光明院の本尊は馬に乗った地蔵尊で、将軍地蔵よばれている。階段を上った入口に将軍地蔵尊碑が立っている。
明知町から西尾町(さいおちょう)へ進む。東征からの帰り道、日本武尊は、急死した建稲種命の霊を内津の地に祀った後、この地まで来たとき、建稲種命のことを思い、馬を返して振り返った。そのとき、馬の頭が東を向き、尻尾が西の方を向いたことから西尾の名がついたという。
市立西尾小学校の南にある安祥寺は大須万松寺の末寺。元は名古屋志賀村にあった本尊を、享保十九年(1734)西尾の観音堂に移したのが寺の起こり。明治時代の路傍の石仏が安祥寺に集められ境内には観音像、地蔵像、馬頭観音像など多くの石像が池に面した崖に集められている。


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  • 神屋の道標・ 秋葉様常夜灯

    神屋の道標・ 秋葉様常夜灯

  • 光明院

    光明院

  • 安祥寺

    安祥寺

  • 馬頭観音

    馬頭観音

内津町

内津町は、明治の始め峠西の拠点として130余戸の人家と10軒の旅籠、13軒の問屋などあり大層賑わい多くの人馬が行き交う地を表す「津」の文字が用いられ「内津」と書き表されるようになった。
下街道の右手、丘の上にある見性寺は、安永年間(1772~1780)に、名古屋大須万松寺の十九世綱国玄提大和尚が、寺を再興した寺院。安永二年(1774)八月、尾張の俳人横井也有翁が寺を訪れて、鶉衣(内津草)を記した。境内には、也有の詩碑と句碑がある。
内津の商家鵜飼家は 江戸時代中頃より大正時代にかけ味噌・たまりの製造販売を手がけ尾張藩から苗字を許される程となり後に解熱剤「正生丸」腹痛薬「金勢丸」の製造販売も行い多いに繁栄した。元治元年(1864)年に建てられたこの住宅は奥に三棟の蔵を持ち春日井市都市景観形成建築物等に指定されている。
内々(うつつ)神社は、「延喜式神名帳」にも記載されている由緒ある神社。
日本武尊が東征の帰路、尾張にはいり篠城に到着して内津の坂をくだられる頃、副将軍建稲種命の従者久米八腹が、建稲種命が駿河の海に落ち水死されたと早馬をもって報告した。日本武尊はこれを聞き悲泣して、「うつつかな、うつつかな」といわれその霊をまつられたのが内々神社である。
実際に祭った場所は内々神社から山道を700mほど上ったところにある奥の院であったとされている。
内々神社に隣接する妙見寺は、室町時代初期に天台宗密蔵院開山慈妙上人によって開創された古刹。
内々神社を出て内津峠を上り、内津峠の道標を過ぎ春日井市から多治見市へ進む。


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  • 見性寺

    見性寺

  • 見性寺

    見性寺

  • 内津町町並み

    内津町町並み

  • 鵜飼家住宅

    鵜飼家住宅

  • 内々神社解説

    内々神社解説

  • 内々神社周辺地図

    内々神社周辺地図

  • 内々神社社殿

    内々神社社殿

  • 内々神社社殿解説

    内々神社社殿解説

  • 妙見寺 

    妙見寺

  • 内々神社奥の院参道 

    内々神社奥の院参道

  • 内々神社奥の院 

    内々神社奥の院

  • 内々神社奥の院 

    内々神社奥の院

*春日井市教育委員会制作の案内板および、『郷土誌かすがい』ホームページを参考に記載しました。

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