御園通 華の名古屋の碁盤割

【動画】華の名古屋の碁盤割

華の名古屋の碁盤割
①江戸時代
②明治10年
③明治20年/30年代
④明治末期/大正
⑤昭和初頭
⑥昭和33年
⑦現在の碁盤割
⑧御園通
⑨広小路物語
⑩広告で見る四区時代
⑪名古屋鮓物語
(株)居東屋会長 伊藤 巧氏インタビュー要約

御園大門は相当高い門。家臣は頭を垂れて御園門からお城へ入っていったと聞いています。御園門の下に、上、中、下、そして広小路通から南側が南園町という名称がつけられていました。明治28年(1896年)に御園座が開業し、大勢の人が集まり映画館や芝居小屋ができました。役者集が泊まる旅館も、あちこちにできて人の交流が盛んになりました。

昭和12年(1937年)、名古屋汎太平洋平和博覧会を開催するにあたり、名古屋には高級なホテルがありませんでしたので、名古屋財界が資金を出して名古屋観光ホテルが建設されました。広小路通側に玄関があって、狭い通路通って入るといった設計がされていました。
納屋橋付近の広小路通沿いに屋台が軒を並べていました。有名な味付けをしたおでん屋さんなどもあり、わざわざ名古屋駅(笹島)を降りて、このあたりの屋台の味を楽しんで、駅から汽車に乗って京都へ行った人たちも沢山いました。

昭和20年の米軍の空襲で、このあたりはほとんど焼け野原になりました。御園座も焼失しました。終戦となり進駐軍が名古屋にも駐屯します。白川公園には通称アメリカ村と呼ばれた、進駐軍将校住宅がありました。伏見通の拡幅工事も行われましたが、そこでの野球の最中にボールがアメリカ村に入ってしまいました。「とってこい!」といわれ、軍用犬に追われた思いでがあります。しかし、塀に囲まれていることもあって、このあたりでは進駐軍はあまり見かけませんでした。
戦後まもない昭和22年、御園座が再建されました。それにより、このあたりは名古屋で一番最初に人が集まる地域になりました。それにともなって、劇場も出来、名宝会館では映画館のほかに、5階にアイススケートリンク、ダンスホールも営業を開始しました。大きな旅館も出来はじめ、御園座前の山田旅館にはおおくの役者が宿泊していました。この周辺の代表的なお店としては、東鮨本店、やさい煎餅の秀松堂、肉の杉本、それから御園座の客が必ずお土産として持ち帰った、薄皮饅頭の山本屋などがあります。和装小物の居東屋の二階は、楽屋でのわずらわしさを逃れた役者さんの溜り場となっていました。新国劇の島田慎吾や辰巳柳太郎などいろんな役者さんが出入りしていました。役者さんに貢献した店も多々ありました。

やっぱり商店街ですから、歩いて楽しい特色がある店をつくらないと人は来ません。ここは名古屋駅から歩いて来られる距離ですので、お互いに協力して良い店をつくりあげる。また、東京から大阪から良い店を誘致すれば、この周辺は昔のように発展すると思います。

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