シリーズ小牧・長久手の戦いその7-織田信雄単独講和

織田信雄は、尾張、伊賀、伊勢を領する大大名であった
織田信雄は、尾張、伊賀、伊勢を領する大大名であった
小牧・長久手合戦を語る
①清洲
②両軍対峙犬山
③織田氏と小口城
④小牧山周辺
⑤岩崎城の攻防
⑥長久手の戦い
⑦織田信雄単独講和
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織田信雄、秀吉と単独講和

長久手で家康に敗退した秀吉は、家康と同盟を結ぶ織田信雄を攻撃をする戦略を取ることにした。当時、織田信雄は伊勢・伊賀・尾張3ヶ国を領有する100万石の大大名であった。尾張西部の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を攻撃。家康の援軍のないまま竹ヶ鼻城(現在の羽島市竹鼻町)は、秀吉軍の水攻めにあって落城した。蟹江城も秀吉方の滝川一益らによって占拠したが、家康と信雄の逆襲によって失敗した。しかし、伊勢、伊賀において信雄軍の敗戦が続き所領のほとんどを失ってしまった。秀吉は伊勢、伊賀の領土の半分を返還することを条件に、信雄に和議を申し入れ信雄はこれに応じ和議が成立した。信雄の要請により織田方を支援する名目が和議により無くなり、家康もこれ以上戦を続けることができなくなり兵を引いた。
この講和により秀吉包囲網の一角が崩れ、翌年から紀州、四国、北陸などの敵対勢力を撃破し、天下統一に突き進んだ。しかし小牧・長久手での敗戦は秀吉の脳裏に家康への恐怖を植えつけた

参考資料

竹ヶ鼻城の水攻め(羽島市歴史民俗資料館)

当時の羽島市一帯は、尾張の国で、織田信雄の支配下にあった。竹ヶ鼻城主不破源六は30,000石を領有していたが、秀吉とも親交がありどちらに味方するか迷っていた。城中で大評定を開いて家臣の意見を聞いたところ「信長公以来の恩義にむくいるべし」との意見が多く、源六は信雄に従うことにした。長久手の一戦で敗北した秀吉は、徳川家康との決戦を考え、長島城の信雄を攻める作戦に変えて、戦場を西に移し、 信雄方の加賀野井城と竹鼻城を攻撃の的とした。10萬余騎を率いる秀吉軍は、天正12年(1584)5月6日加賀野井城を総攻撃し1日で落城させると、今度は竹鼻城に信雄・家康を引き出すための長期戦の構えを見せ竹鼻の東には足近川とつながる逆川が流れており(当時は南流していたと思われる)、その堤にそって町家が続いていた。水攻めはこの逆川堤を利用して、町家ぐるみ城を長堤で囲むことにした。まず竹ヶ鼻城の北1kmにある間島村の砂山に付城(戦闘指揮所)を築かせ本陣とした。ここは後に「太閤山」といわれた。
築城工事は、5月11日より5~6日の間に実施された。高さ6~7間(約10.8~12.6m)、巾14~15間(約25.2~27m)の堤が、城を中心に北は間島から西ヘ半円を描いて、松山・本郷・淺平の各村をまわって、南は江吉良で逆川堤に接続する長さ2.6kmの長堤であった。これが太閤の一夜堤といわれるものである。旧暦5月は雨が多く、足近川もちょうど増水し、この水を一夜堤の中に入れたので、水は二の丸まで入り、町家は3尺(1m)も湛水した。700余人が立てこもる城内では、筏を組んだり、木立の上に葦簀を張ったりして対処したという。町家では逃げ場を失ったねずみやへびなどが押し寄せ、婦人子どもはこれに苦しんで死ぬものも多かったという。
竹ヶ鼻城では何度か信雄や家康のところへ救援の使者を送ったが援軍は現れなかった。ついに6月10日にいたり、城主不破源六は、秀吉の申し出を受諾し、営々として築き上げた城も無血開城となり、源六は伊勢長島の信雄の城へ撤退した。

竹鼻城関連の史跡

  • 竹ヶ鼻城、蟹江城の位置(地図は江戸時代)

    竹ヶ鼻城、蟹江城の位置(地図は江戸時代)

  • 一夜堤の跡の石碑

    一夜堤の跡の石碑

  • 羽島市歴史民俗資料館(竹ヶ鼻城跡)

    羽島市歴史民俗資料館(竹ヶ鼻城跡)

  • 併設の羽島市映画資料館

    併設の羽島市映画資料館

  • 羽島市映画資料館

    羽島市映画資料館

  • 竹鼻町(旧竹ヶ鼻町)の町並み

    竹鼻町(旧竹ヶ鼻町)の町並み

  • 旧菱田邸

    旧菱田邸

  • 千代菊酒造店

    千代菊酒造店

蟹江城(蟹江町公式サイト)

蟹江城は1429年頃(永享年間)、北条時任(ときとう)が城塞を築いたのが初めと言われ、戦国時代には、本丸、二の丸、三の丸の三郭(さんかく)があり、大野、下市場、前田の三つの支城があった。しかし、1584年(天正12)に起きた蟹江合戦と翌年の大地震で壊滅し、現在は城址の石碑と本丸井戸が残る公園となっている。
蟹江城を中心にして起きた蟹江合戦とは,長久手の戦いで徳川家康に大敗を喫した羽柴秀吉の雪辱戦であり、尾張における制海権を確保し、織田信雄と家康の間を離反させるための戦いであった。滝川一益(かずます)を主将に九鬼(くき)水軍を伴い、蟹江城主佐久間正勝(まさかつ)の留守をあずかった前田長定(ながさだ)の内応により無事入城し,成功するように思えた作戦であったが、大野城主山口重政(しげまさ)は助力を拒み、城内では鈴木重安・重治兄弟らの抵抗に遭い、徳川・織田連合軍の反撃により、秀吉は敗退した。これ以後,秀吉は武力をもって家康を屈服させることを断念し、謀略戦に転ずる決意をした戦いであった。

蟹江城関連の史跡

  • 蟹江城郭略図

    蟹江城郭略図

  • 産業文化会館(蟹江城址公園北東)

    産業文化会館(蟹江城址公園北東)

  • 蟹江町歴史民俗資料館(産業文化会館内)

    蟹江町歴史民俗資料館(産業文化会館内)

  • 蟹江城址公園案内板

    蟹江城址公園案内板

  • 蟹江城址公園

    蟹江城址公園

  • 蟹江城址石碑

    蟹江城址石碑

  • 歴代蟹江城主の祈願所地蔵寺

    歴代蟹江城主の祈願所地蔵寺

  • 地蔵寺本堂

    地蔵寺本堂

  • 蟹江川(このあたりが当時の海岸線)

    蟹江川(このあたりが当時の海岸線)

  • 蟹江川は江戸時代に開削された

    蟹江川は江戸時代に開削された

  • 富吉神社前(このあたりが当時の海岸線)

    富吉神社前(このあたりが当時の海岸線)

  • 富吉神社由来

    富吉神社由来

  • 富吉神社拝殿

    富吉神社拝殿

  • 蟹江城主先祖代々供養塔(富吉神社)

    蟹江城主先祖代々供養塔(富吉神社)

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