慶長3年(1598年)、豊臣 秀吉が病没。以後、政治体制は五大老(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家)による合議制へと移行した。慶長4年(1599年)、豊臣 秀吉の遺児秀頼の養育係の責任者で五大老の中でも筆頭格の前田利家が病没すると、五大老筆頭の家康は、秀吉により禁止されていた大名家同士の婚姻を行うなど、他の毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家の大老の反発を招いた。慶長4年(1600年)、大坂城に居た徳川家康は会津の上杉景勝の動向を疑い再三の上洛を求めた。上洛を拒む上杉景勝に逆心ありと伏見城の守備を鳥居元忠らに命じ、6月16日、上杉討伐のため関東へ向かう。7月23日、徳川家康が下野国 小山へ到着。そこに家康に反感をもつ石田三成挙兵の報が入る。7月25日、小山において上杉討伐を中止を決定。福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、家康を総大将とした三成討伐軍が結成された。8月初頭に江戸に戻った家康は、約1ヶ月江戸城に留まり三成方武将の動向を探り、また味方諸将への指令や他大名への勧誘工作を行った。また、徳川方の諸大名は東海道を西に進軍、清洲城を目指す。
一方、西軍は総大将毛利輝元が広島を出て7月19日に大坂入城。同時に、東軍に参戦した細川忠興の留、父細川幽斎の守る丹後田辺城や家康家臣・鳥居元忠らが篭城する伏見城への攻撃の軍を進める。8月1日伏見城が落城、田辺城は落城寸前となるが、文化人幽斎を惜しむ朝廷の仲介などで講和が成立した。 8月初旬、北陸敦賀城を居城とする大谷吉継は、加賀の大聖寺城を落とした東軍前田利長の南下を防ぐため北上、利長を金沢へ押し返す。毛利秀元・長宗我部盛親ら西国諸大名らは伊勢の安濃津城主、松坂城を落城させる。
8月中旬、福島正則、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興らが清須城に到着。清洲城は文禄4年(1595年)から福島正則の居城となっていた。 8月22日、池田照政麾下の部隊と福島正則以下各隊が織田秀信(幼名は三法師)守る岐阜城に向けて進軍、翌、23日に落城する。西軍の犬山城も降伏、開場にいたる。東軍は、そのまま西へ進み、大垣城北西の岡山へ着陣する。家康は岐阜城での勝利の報告を受け、8月24日宇都宮にいた徳川秀忠に上田攻略を命じる。秀忠は上田攻略後、中山道を西に進み東軍主力と合流する予定であった。9月1日には、家康が3万余の兵を率いて江戸を出立、赤坂へ向かう。
宇喜多秀家・小西行長・石田三成ら西軍は、城主伊藤盛宗に大垣城明け渡しを要請。盛宗は要請を受け退城し大垣城が西軍の本陣となる。東軍8万は、城を取り囲み膠着状態が続く。北陸の大谷軍、伊勢に展開する西国諸将の軍は、この知らせを受け救援のため兵を引き返し関ヶ原に向かう。9月2日、大谷吉継、戸田重政、平塚為広、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の軍勢が関ヶ原南西の山中村に着陣。また9月7日には、毛利秀元、吉川広家らが南宮山に布陣する。
9月14日、西軍の斥候が家康の岡山(美濃赤坂)着陣を報告、西軍の兵士の間に動揺が広がった。 島左近は兵たちの動揺を鎮めるため、三成に東軍との一戦を提言する。島左近は蒲生郷舎とともに大垣城を出陣、家康の岡山本陣方面へ向かう。 大垣と岡山の中間を流れる杭瀬川を池尻口から渡河。東軍の中村一栄隊の前で刈田をして挑発すると、中村隊は攻撃を開始。しばらく、激しい交戦が続き、左近の軍は撤退すると見せかけて杭瀬川を渡河、大垣方面へ。中村隊はこれを追って杭瀬川を渡河、潜んでいた宇喜多らの伏兵に襲われる。中村一栄の家老野一色助義が討たれ 関ヶ原の戦いで数少ない西軍の勝利に終わり、家康は本陣への撤退を命じた。
この間、関ヶ原では異変が起こっていた。松尾山城の守備には伊藤盛正(大垣城主)があたっていたが、西軍から離れ近江付近に滞留していた小早川秀秋の軍が伊藤盛正を追い出して松尾山城に入城した。本来、この城には西軍大将毛利輝元を招聘し本陣にする予定であった。小早川秀秋の行動に疑念を持っていた石田三成は、やむなく9月14日の夜、7500の守備軍を残して大垣城から関ヶ原へ出陣する。 東軍も、この西軍の動きを知り、赤坂の陣を引き払って中山道を関ヶ原へと軍を進めた。夜明け前に両軍の布陣が完了、夜明けを迎えた。
午前8時頃、関ケ原を包んでいた濃霧も晴れ、徐々に西軍の旗指物が見え始めた。東軍の井伊隊が宇喜多隊に向けて攻撃 福島隊も宇喜多隊に発砲し戦端の火蓋が切られた。島左近らの奮戦で、正午になっても勝敗は決せず膠着状態が続く。家康も桃配山より、前線の陣場野に陣を移し諸隊を指示する。 松尾山城で静観する小早川秀秋に痺れを切らした家康は、小早川隊に向けて催促の一斉射撃を行った。遂に小早川隊は寝返りを決め、大谷隊に向かって下山、攻撃を開始する。家康と内通していた脇坂隊もこれに呼応、朽木・小川・赤座も寝返り大谷・戸田・平塚軍は壊滅し吉継はその場で自害した。小西隊、宇喜多隊も敗退、西軍は総崩れとなり小西行長、石田三成も伊吹山方面に逃走し、東軍の勝利に終わった。もともと東軍加担を主張、家康に内通していた吉川広家は、中山道に近い南宮山東に布陣、毛利秀元、長宗我部盛親ら西軍の参戦を妨害、南宮山の西軍は戦わずに戦場を離脱した。
敵陣の真っ只中に取り残された、島津義弘・甥の豊久は敵中突破を決断。陣場野の家康本陣に突進、直前を通り過ぎる形で北国街道・伊勢街道を南へ進む。井伊直政、松平忠吉、本多忠勝らの必死の追跡を振り切って島津義弘は鹿児島へ帰還する。しかし甥の豊久は、烏頭坂で追撃する敵を食い止める捨て(すてがまり)戦術をとり戦死した。捨て奸とは、退路に死を覚悟した数人の兵士を残し敵将を狙撃し、接近戦に持ち込み退路を確保する戦術。井伊直政、松平忠吉は銃弾で負傷、松平忠吉はこの時の傷がもとで若くして夭逝したといわれている。