家康軍小牧山に布陣、秀吉軍楽田城へ
清洲城に到着した家康のもとに、織田家の重臣池田恒興が、秀吉側について犬山城を占拠したとの報が届く。小牧山で秀吉軍を迎え討つため天正12年(1584)3月15日、四方を見渡せる、小牧山に進軍し本陣を置くこととなった。小牧山城は美濃攻略のため居城を清洲から移すため、小牧山の山頂に織田信長によって 築かれた城。永禄10年(1567)に斎藤龍興から稲葉山城(のち岐阜城)を奪取し移転し、廃城となった。
一方、秀吉軍の森長可(ながよし)も戦略拠点の小牧山を奪取すべく羽黒に兵を進めた。家康軍は、これに察知し酒井忠次、榊原康政ら5000の兵で急襲し八幡林で敗退させた(羽黒の戦い)。羽黒の戦いの勝利の後、家康は小牧城の土塁、空堀を大規模に改修し強固な陣地を築きあげた。また小牧山の東側に、秀吉軍の南下を防ぐため蟹清水、北外山、宇田津、田楽などの砦を配置した。
天正12年(1584)3月21日、秀吉は大阪城を出陣。犬山城を経て、楽田に本陣を構えた。徳川軍の強固な防衛線に驚いた秀吉は、これに対抗すべく小松寺山砦、小口城、内久保砦、岩崎山砦、二重堀砦、青塚砦、外久保砦に砦を築き、兵を配置した。双方の守りは堅く、動けば不利ということで膠着状態に陥った。
関連人物紹介
森長可(ながよし)
永禄元年(1558)、森可成の次男として生まれる。父の死後、戦死した兄に代わり家督を継ぐ。織田信長の嫡男、織田信忠の部隊で長島一向一揆攻めで初陣を飾る。兼山城の城主として城下を流れる木曾川を利用した水運で商業の活性化をはかる。設楽・長篠の戦いの勝利後の甲州征伐の活躍で、信濃国に4郡(20万石)を与えられる。
天正10年(1582)越後の上杉景勝討伐の柴田勝家の救援に赴くが本能寺の変の報を受け、敵陣深く進攻していた可成は人質を楯にかっての居城金山城に逃げ帰る。森欄丸の兄であり、勇猛果敢な長可は、信長に寵愛され二度の軍規違反を犯したが、許されている。一方、高遠城攻めの無差別殺戮や人質の殺害などの残虐な行動で旧家臣らの反発と造反を招いている。
小牧・長久手の戦いでは、義父である池田恒興とともに秀吉軍に参加した。
酒井忠次
大永7年(1527)、松平家(のちの徳川家)に代々仕える酒井忠親の次男として生まれる。家康の父、松平広忠に仕え家康が今川義元の人質になった時には、最高齢の家臣として駿府に赴いている。桶狭間の戦いの後から家康に重用される。設楽・長篠の戦いで長篠城背後の鳶ヶ巣山への奇襲を敢行、みごと成功し武田勝頼の本隊を設楽原に誘き出し殲滅するきっかけを作った。
家康の嫡子・松平信康と家康の正室・築山殿に武田勝頼と内通の嫌疑がかかった時、信長の元へ使者として派遣されたが、弁明に失敗し悲惨な結末を迎えたと言われている。その後も、小牧・長久手の戦いなど主要な合戦に参加し戦功をあげている。徳川四天王(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)筆頭といわれる功臣だが、晩年は他の三人に比べ家康に冷遇されている。
榊原康政
天文17年(1548)生まれ。徳川四天王(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)の一人。家康(当時は松平元康)の小姓として仕え、三河一向一揆の平定の活躍で家康に重用される。四天王の一人、本多忠勝とは同年で桶狭間の戦いで家康が信長と同盟を結ぶと、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いに家康とともに参戦、数々の武功をあげる。
本能寺の変では、本多忠勝とともに家康を守り三河への脱出を成功させた。信長の死後、遺児織田の信雄の要請で秀吉と戦った小牧・長久手の戦いでは、「羽黒の戦い」や秀吉の甥、三好秀次の軍勢を壊滅させた「白山林の戦い」で圧勝、長久手では森長可、池田恒興を討ち取った。
地図
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映像でのインタビューの要約(犬山市教育委員会 川島誠次 学芸員)
小牧・長久手の戦いと犬山城
犬山城は、西暦1537年に織田信長の叔父に当たる織田信安により、現在の犬山市役所の西にあった木ノ下城を移転して 築城されました。本能寺の変で織田信長と長男の信忠が死んだあと、信長の次男、信雄(のぶかつ)と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)との 対立のなかで、信雄(のぶかつ)が徳川家康と連合して小牧・長久手の戦いが始まりました。当時、大垣にいた織田家の重臣、池田恒興が 秀吉側に加担して、尾張と美濃の国境の犬山を攻め落としました。当時の犬山城主中川定成(信雄の家臣)は、信雄の領国伊勢の方にいっており不在であったため防備が手薄であったと思われます。小牧・長久手の戦いの始まりの場所となりました。
梶原氏と羽黒城
一説には、源頼朝の死後に鎌倉幕府から追放された、梶原景時(源頼朝の重臣)の子孫が羽黒に移住したと言われています。その子孫であるかは定かではありませんが、梶原という人物が、織田信長、信忠に仕えて、この地域を支配していました。その梶原氏の屋敷が、現在の羽黒城址公園とその西にある興禅寺にあったと考えられています。しかし、天正10年(1582)の 本能寺の変で織田信長、信忠とともに討死し滅亡したといわれています。その後、領主のいないまま放置されていましたが、本能寺の変の2年後に起こった、小牧・長久手の戦いで秀吉軍の砦として使われ、山内一豊(のちの土佐藩領主)が駐屯したと言われています。
八幡林の戦い
私のいる、八幡林は小牧・長久手の戦いの初戦で秀吉方の武将、森長可(ながよし)と徳川方の四天王と呼ばれた榊原康政らで小規模な戦いが行われた所です、この戦いで森長可は敗北しています。池田恒興にとって森長可は娘婿にあたるので、その汚名を晴らすことも含めて、家康の本拠である岡崎を攻めることになったという、結構いわれている説もありますので、それも大きな要因であると考えられています。
川島誠次 プロフィール
昭和59年 岐阜県に生まれる平成20年 岡山大学文学部人文学科卒業
財団法人岐阜市教育文化振興事業団埋蔵文化財調査事務所に嘱託職員として1 年間勤務平成21年 犬山市役所に勤務し、犬山城の担当となり、現在にいたる。
著作等
平成22年 『犬山城範囲確認調査 第1次調査概要』
平成23年 『犬山城範囲確認調査 第2次調査概要』
平成24年 『犬山城範囲確認調査 第3次調査概要』
平成25年 『羽黒城跡 平成24年度発掘調査報告書』
「三度の戦いを生き抜いた城 犬山城の歴史と保存」『日本の城・再発見 彦 根城、松本城、犬山城を世界遺産に』 (五十嵐敬喜、岩槻邦男、西村幸夫、松浦晃一郎 編著)