岩崎城の歴史
築城年代は不明だが、織田信秀(信長の父)により築城され、属将・荒川頼宗に守らせた。享禄2年(1529)、徳川家康の祖父、松平清康により落城したが、その後松平清康は、陣中で家臣に暗殺される「守山崩れ」により死亡、松平氏は勢力を失って後退し、変わって岩崎城近くの本郷城主丹羽氏清が移り住み、約60年間、丹羽氏次まで4代続けて居城となった。
関ヶ原の戦い後、丹羽氏次が三河に移封されたため廃城になった。その後長らく放置されたが、昭和62年(1987)、五重構造の天守閣(模擬天守)が完成、現在は岩崎城址公園として岩崎城歴史記念館なども備えた施設として市民に親しまれている。
岩崎城の攻防
池田恒興による中入り作戦(敵の陣を迂回して、手薄になった家康の本拠岡崎を攻めて小牧山から誘き出す)を秀吉は承認。池田恒興父子6000人と森長可以下3000人が先鋒、次鋒として岡崎に向かった。
岩崎城は旧織田家の家臣で、その後徳川家康に仕えていた丹羽氏次の居城として秀吉軍の進軍に備えていた。このとき丹羽氏次は徳川家康の軍に従軍していたため、弟の氏重と長久手城主・加藤景常に200余名の兵を託し守備を任せていた。
池田恒興父子、森長可の軍勢は本来ならば、城攻めで時間を浪費することなく家康の本拠、岡崎に直行する べきであったが、岩崎城からの銃撃を受け、池田恒興は挑発にのって城の攻撃を命じた。約2時間の戦闘の末、多勢に無勢、岩崎城は落城し丹羽氏重と加藤景常は討ち死にした。城攻めには成功したものの、時間の浪費が秀吉軍の敗戦の一因となった
丹羽氏次と氏重
天文19年(1550)に丹羽氏勝の長男として生まれる。織田信忠(信長の嫡男)に仕えるが、本能寺の変で信長・信忠親子が死去、信雄に仕えるが対立して離反、徳川家康に仕える。関ケ原の戦い後、その戦功を認められ、三河に移封され岩崎城は廃城となった。
丹羽氏重は、永禄12年(1559)生まれ。小牧・長久手の戦いでは、家康に従軍して小牧へ向かった兄に代わり岩崎城の守備にあたった。眼前を通る秀吉軍に果敢に攻撃を仕掛けるも討死。享年16歳。
地図
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