- INDEXへ
- 関ケ原合戦まつり
- 垂井曳やま祭
- 墨俣一夜城
- 水都大垣
- 薄墨桜と樽見鉄道
- 横蔵寺・華厳寺の紅葉
- 世界初!連柿100串に挑戦
- 長良川源流と白山への道
- 長良川鉄道で長良川を下る
- 郡上おどり
- うだつの上がる町並み
- 美濃和紙あかりアート展
- 関鍛冶伝承館
- 瑞浪市化石博物館
地図
写真
大垣市と美濃路
三重の掘に囲まれた水の城「大垣城」の総掘内には、古来からの町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、その町屋を縫うように美濃路が通っていた。
東方に位置する東総門は、名古屋方面にあることから名古屋口門とも呼ばれ、京都方面に通じる西総門とともに明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。本町の北隅の札の辻には高札場がおかれ、南に下ると脇本陣が置かれていた。竹島町には本陣が建造され、現在は、大垣宿本陣跡附明治天皇行在所跡として大垣市の史跡に指定されている。
西総門を出て、舟町道標を通り南にくだると住吉灯台が見えてる。陸送に変わるまでは、桑名と大垣を結ぶ水運の拠点として繁栄したところである。
(案内板を参照)
大垣市の春
戸田氏と大垣城
大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられている。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となった。その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで太平の世が続く。昭和11年(1936)に国宝に指定されたが、昭和20年(1945)7月戦災で焼失。昭和34年(1959)4月、4層4階の天守閣を再建し、名実ともに城下町大垣のシンボルとなっている。
(大垣市HPより)
新緑の大垣市 たらい舟と大垣まつり
大垣まつりの軕の起源は、慶安元年(1648年)に大垣城下町の総氏神であった八幡神社が、大垣藩主戸田氏鉄公により再建整備されたおり、城下18郷が喜びを神輿3社の寄付で表し、大垣10か町が10両の軕を造って曳回したのが始まりといわれている。
延宝7年(1679年)、藩主戸田氏西(うじあき)公から、「神楽軕」「大黒軕」「恵比須軕」のいわゆる三両軕を賜り、それを機に10か町は、軕の飾りつけに趣向を凝らしていった。
濃尾震災や先の大戦によって多くの軕を失いますが、その後、修復や復元、購入したなどにより再建が進められ、平成24年に2両の軕が復元され、70年ぶりに全13両軕が勢揃いした。
(大垣市HPより)