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尾張名所図会は江戸時代後期の尾張名古屋の様子を描写した単色の版画絵です。江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行されました。Network2010は、より鮮明に江戸時代の風俗を紹介するためデジタル技術を使い単色絵にイメージ着色する作業を行いました。
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江戸時代後期の有松・鳴海・星崎・笠寺と東海道
桶狭間の戦いは、1560年、織田信長と今川義元は桶狭間(愛知県)で戦い、織田信長が少数の軍勢で今川義元を倒し、織田信長の名を全国に知らした戦いです。尾張名所図会で合戦の様子をご覧ください。
東海道知立宿と鳴海宿の間に有松は位置しています。竹田庄九郎らによって誕生した有松絞りは、尾張藩の特産品として保護され東海道を往来する旅人により街道一の名産品とうたわれました。
瑞泉寺は、応永三年(1396)根古屋の城主安原宗範の創建した曹洞宗の名刹。瑞泉寺の背後には、桶狭間合戦の時、織田軍が陣を構えた善照寺砦が丘の上にあり、今川方の鳴海城をにらんでいます。成海神社は、686年に創建され扇川に面した天神山に置かれていましたが、1394年安原宗範がその場所に根古屋城を築いたため、現在地に移転されました。
江戸時代星崎・前浜では良質な塩が生産されていました。生産された塩は、塩付街道から足助を経由して信州方面に運ばれ、塩付街道の通る御器所村の沢庵漬はこの塩を利用して盛んになったと言われています。
笠寺観音は、天平時代(8世紀)に善光上人によって建立されました。甚目寺観音、荒子観音、竜泉寺観音とならび、尾張四観音の一つに数えられて名古屋城を守護する役割もになっていました。
松尾芭蕉が記した「寝覚めの里よびつぎ」は、宮宿から渡し舟の出航を知らせる声が人から人へ呼びついがれたことから呼続となったと言われています。
江戸時代後期のの熱田宿
姥堂は、精進川に架かる裁断橋のほとりある祠です。その昔、川でおぼれた僧侶の衣服を盗んだ老婆は そのたたりで死んでしまい、老婆のさまよう霊を供養して縁者が奪衣婆の像を姥堂に安置しといわれています。
源太夫社(上知我痲神社)は、東海道と美濃路の分岐する追分に建てられていました。知恵の神様として「知恵の文殊(もんじゅ)さま」と呼ばれて現在も崇拝されています。国道の建設で移転され、現在は熱田神宮の境内に鎮座しています。
七里の渡しは宮宿から桑名宿まで船で渡る東海道で唯一の海上路でした。その距離が七里であったことから七里の渡しとよばれ、満潮時には沿岸に浮かぶ島をぬうように、干潮のときは沖まで小舟で行き帆かけ舟に乗って旅をしました。熱田の浜の神戸には、豪商や高級武士などの船待ち客を相手にする旅館が立ち並んでいました。鳴海、星崎の遠景を望み、夏には夕涼み、秋には月見など楽みました。船着き場には商人たちの荷が山積みになっていたと言われています。
現在の熱田区木之免町、大瀬子公園のあたりの風景。近海の魚類はもとより、遠近諸国からは船で、三河の吉田からは徒歩で運ばれた魚を尾張藩指定の六軒の問屋が売りさばいていました。
南宮祭(熱田天王祭)は、平安中期頃、熱田周辺で疫病が流行しその厄除けとして始まったと伝えられています。室町中期になると京都祇園祭の影響もあり傘鉾型の山車が参加するようになり、江戸中期には高さ約20mにもなる大山もありました。
熱田神宮は、第12代景行天皇の御代に日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃の宮簀媛命(みやすひめのみこと)が三種の神器の草薙剣(くさなぎの つるぎ)をこの地に祀ったのが起源とされる伊勢神宮に次ぐ大社です。踏歌神事は、新春一月十一日、舞と歌曲により大地の精霊を鎮め、除厄と招福を祈ります。神矢により豊年と除災を祈る御的射神事(歩射神事)は、大的に向かって六人の射手が矢を中央の千木に向けて放ちます。大官祈年祭夕供御(祈年祭)は、春三月、一年間の五穀豊穣を祈る祭りです。大宮舞楽(舞楽神事)は、平安時代より伝わる高舞台で舞う雅びやかな平安絵巻。
江戸時代後期の熱田神宮と美濃路周辺
平安時代末期、熱田大宮司藤原氏の別邸があったあたりで、藤原季範の 娘由良御前は、源義朝の正室となり、実家に帰り頼朝を生んだといわれている。享禄二年(1529)別邸跡に誓願寺が建立されました。
白鳥古墳は、5世紀末頃から6世紀前半頃に築造された前方後円墳で全長が約74m、最大幅25m。法持寺のすぐ隣にあるこの古墳は、白鳥となってこの地に戻った、日本武尊の墓と伝えられています。
藤団子は、古来より熱田の名物として伝わる干菓子。米粉や砂糖を使って 出来た五色の環を、麻ひもで結っています。
江戸時代後期の断夫山~熱田神宮一之鳥居
断夫山古墳は,東海地方最大の前方後円墳。毎年3月3日に立ち入りが許され、人々が熱田の景観を楽みました。
一之鳥居は、熱田神宮周辺にあった八つの鳥居の一つ。尾頭にあった一の鳥居はひときは大きく、三丈五尺(11.6m)もあり道行く人を驚かせました。
沢観音妙安寺は、熱田神宮の周辺にあった四観音のひとつで、堀川沿いにあり遠くは鈴鹿山系も望まれる名古屋三景のひとつでした。
江戸時代後期の橘町・東別院周辺
小栗街道は鎌倉街道(鎌倉と京都を結ぶ古道)の一部で、古渡稲荷の前で美濃路と交差していました。東輪寺は、禅宗の一派黄檗宗の寺院。川口屋は橘町の大木戸近くの本町通の東側に面して飴とおこしを 販売し、神宮詣でのいき返りの客で繁盛しました。
徳川光友(尾張藩2代藩主)は、芝居の興行権を認めて町の活性化につとめました。光友が名付け親となった橘町にも芝居小屋「橘座」が出来ました。東別院は1690年、尾張藩主徳川光友 より織田信長の父信秀の居城「古渡城」 の跡地1万坪の寄進を受けて建てられた真宗大谷派の寺院です。明治初期には博覧会が開かれたり、名古屋場内から愛知県庁が移転されました。
東別院の東北に小高い丘があり、そこから東を見ると猿投山の左越しに富士山を望むことができたので富士見原と呼ばれました。酔雪楼は、富士見原の一部で遠くは富士山も望める景勝地として知られていました。俳人や書家などの文人たちが、景観を楽しみながら酒を酌み交わす場所でもありました。
日置橋から北、数町にわたって堀川の両岸には数百本の桜が植えられ花見時になると多くの見物客でにぎわい、名古屋城下を代表する景勝地でした。慶長14年(1609)の「清須越し」で名古屋に移転されました。
文化14年(1817)葛飾北斎が境内で、120畳敷きの達磨の大画を描き注目を集めたことで有名です。明治6年(1873)、医学講習所が置かれました。
江戸時代後期の大須門前町・白川公園
七ッ寺境内には、二代藩主徳川光友により寄進された三重の塔が建っていました。また、『一切経』参千余巻を所蔵しています。参拝客は、七ッ寺の境内にある茶店で庭園を楽しみながら時を過ごしました。
清寿院は、那古の山古墳にあった修験道の寺院、明治になり廃寺されました。
大須観音は、真言宗の寺院。慶長17年(1612)に羽島市の大須郷から移転されました。また、『古事記』の最古写本をはじめとする貴重書を多数蔵する「真福寺文庫」があります。
大光院明王殿は烏瑟沙摩明王を本尊とし、お線香の煙を手に受けて身体にさすると心身の病、苦痛を快癒すると伝えられています。阿弥陀寺木像涅槃会は、釈迦の亡くなった2月15日(陰暦)におこなわれます。頭を北に右わきを下に横たわった釈迦を弟子たちが見守っています。
織田信長の次男信雄は、本能寺の変で亡くなった父の霊を弔うため伊勢国大島村にあった安国寺を清洲に移し総見寺と改名して再興しました。「清州越し」により慶長15年(1610)名古屋に移転され、境内には信長公、信雄公の廟が置かれています。万松寺は、織田信長の父信秀が建立した織田家の菩提寺。信秀の葬儀の日、信長が抹香を仏前に投げつけ「大うつけ」と呼ばれた逸話は有名です。慶長15年(1610)名古屋城下建設のため現在地に移転されました。
性高院は、徳川家康の四男、松平忠吉の菩提寺。忠吉は関ケ原の戦いで井伊直政とともに奮戦、その功もあり清洲城主に任じられました。しかし若くして夭逝、清洲越しによって寺号を「性高院」と改め大須に移転されました。忠吉には跡継ぎがなく家康の九男義直が初代の名古屋城主となりました。
政秀寺は、織田信長が家臣の平手政秀の菩提を弔うため天文22年(1553)小牧に建立し、江戸時代初頭に名古屋に移転されました。白林寺は、尾張徳川家附家老成瀬氏ゆかりの寺院です。
若宮八幡宮は、八世紀初頭に名古屋城三の丸の地に創建されたと伝えられています。慶長15年(1610)に名古屋城築城のため現在地に移転。例祭である若宮祭は名古屋東照宮の東照宮祭、天王社の天王祭とならんで名古屋三大祭と言われました。
現在の白川公園には、大小多くの寺院が集積していました。太平洋戦争末期に市内各所に移転されました。
その昔、洲崎神社の西側は入海でした。洲崎神社は牛頭天王社とも呼ばれ、このあたりは天王崎と呼ばれていました。対岸には法蔵寺の八角堂が見えます。
江戸時代後期の碁盤割(名古屋城下中心部)
徳川家康は名古屋城下建設時、名古屋城の南の区域を碁盤の目のように区画し「碁盤割」と呼ばれました。広小路ができる前は堀切筋と呼ばれ道幅三間(3.64m)の狭い道でしたが、万治3年(1660)、万治の大火と呼ばれる大火事が発生し城下町の大半を焼き尽くしました。それを契機に延焼を防ぐため久屋町から長者町までの区間が4倍以上拡幅され広小路が建設されました。夏の夜は涼を求めて多くの人が芝居、物まね、居合抜きの芸を夜が更けるまで楽しみました。
浅井家は尾張藩の侍医を勤めるかたわら、医学館という医学塾をつくり医師の試験も行っていました。 毎年六月十日に万国の物産や動物を公開し、多くの見物人が集まりました。
朝日神社は城下町碁盤割りの守護神として、清洲城下、朝日郷から移転されました。広井八幡傘鉾祭は神輿を材木町の白山社まで渡御し山車が焼失後は、傘鉾がでるようになりました。
紀州和歌山の浅野幸長の家臣であった小見山家は、幸長の娘春姫が尾張藩祖徳川義直に嫁いだのをきっかけに尾張藩に随行しました。 後に、尾張藩医となった小見山宗法は、尾張藩の筆頭の薬屋として繁盛しました。
本町三・四丁目は名古屋城下でもっとも賑やかな地域でした。大丸の店の前では毎年二月二十五日桜天満宮祭礼前後の三日間に植木市が開かれ、近隣の村からも植木を売る村人が店を並べまるで森の中を歩くような錯覚におちいりました。
公用人馬の取次所である伝馬会所周辺は、美濃路の名古屋宿にあたります。本陣や脇本陣はありませんでしたが「札の辻」とよばれる高札場が設置され、丸栄百貨店の前身十一屋が店舗を構えていたました。美濃路はここで西に折れ本町通と分岐します。
桜天満宮は、織田信秀(織田信長の父)が京都の北野天満宮に参詣したとき、夢枕に現れた菅原道真のお告げに従い創建したといわれています。神木に桜の大樹が多かったので桜天満宮と呼ばれました。
堀川東岸の木挽町、久屋町筋には魚を売る店が多く魚の棚と呼ばれていました。東照宮の祭礼の十六日には見物客相手に弁当などを販売。家ごとに提灯を掲げ、芸妓が赤たすきで手伝っています。
伊藤呉服店の起源は、慶長16年(1611)、織田信長の家臣伊藤源左衛門祐道が名古屋の本町で呉服小間物商を始めたことに由来します。その後、万治2年(1659)祐道の遺児・祐基が茶屋町に呉服小間物問屋を開業。「現金売り正札付き掛け値なし」の商法は庶民の支持を受けました。明和5年(1768)上野の松坂屋を買収、いとう松坂屋と改めました。
福島正則は小田原の北条攻めに出陣し兵糧不足を経験しました。その教訓から清州城内に三つの大きな食糧庫を建設ました。清州越しで藩都が名古屋に移ると、納屋橋の南の堀川東岸に米蔵を建設し尾張藩の官倉としました。倉の数は以前より増しましたが、昔どおり三倉と呼ばれました。
四間道は、元禄13年(1700年)の大火の後、延焼を防ぐこともあり四間(7m)に拡張されてこの名前がつきました。
江戸時代の初期、円頓寺周辺は徳川義直の側室・貞松院の下屋敷など武家屋敷が並んでいました。享保9年(1724)の大火の後、円頓寺や慶栄寺が移転し門前町として大須に並ぶ繁華街となりました。
江戸時代後期の名古屋城周辺
名古屋城は蓬左城ともよばれていました。「蓬左」とは蓬莱の宮、熱田神宮の左側にある町を示しています。名古屋城は江戸初期の代表的な平城で、本丸、 二の丸、西の丸、御深井丸、三の丸からなっており、五層の天守と小天守が連結しています。天守の屋根の両端には金鯱が飾られ名古屋城下を見下ろしていました。
大小天守閣の石垣工事を行った加藤清正は巨石を修羅(重い石材などを運搬するために用いられた木製の大型そり)に乗せて運ぶとき、石の上に乗り気勢を上げたと伝えられています。
亀尾天王社(三之丸天王社)は名古屋城内三之丸にあり、創建時より若宮八幡社に隣接していました。名古屋城築城で移転することになりましたが、移転不可のご神託により若宮神社のみが現在地に移転されました。明治9年(1876)、陸軍の施設が建設されることになり、旧藩校明倫堂跡地に移転、那古野神社と改称されました。例祭である天王祭は東照宮祭、若宮祭とならんで名古屋三大祭とされ、毎年6月15・16日に若宮祭と同時に行われ二つの祭礼を総称して祇園祭と呼ばれていました。
尾張藩初代藩主徳川義直は元和5年(1619)、父徳川家康遺徳をしのび名古屋城内三の丸、亀尾天王社の隣地に東照宮を建立しました。明治維新になり亀尾天王社とともに旧藩校明倫堂跡地に移転されました。東照宮祭礼は四月十五・十六日に行われ、十六日には山車や三基の神輿が加わった総勢4000人を超える行列が名古屋城を出て本町通を下り末広町の御旅所へ向いました。名古屋三大祭りのなかでも最大の規模を誇っており、 戦前まで「名古屋祭」と言えばこの東照宮祭を指していました。
江戸時代後期の東武家町と建中寺
七尾天神社は、文亀年間(1501~4)に、天神池に七つの尾を持った霊亀が菅原道真の木像を背負って現れたことから始まります。霊亀の背に七度水をかけると学業成就及び諸願成就すると言い伝えられています。(七尾天神社HPより)
長久寺は、清洲越し(1610)により名古屋に移転された真言宗智山派の寺院。
江戸時代、山吹谷公園一帯は山吹の花の咲く名所で山吹谷と呼ばれる景勝地でした。
養念寺の裏庭にある「烏が池」は、泥土が黒い為、水が黒く見えることから「烏が池」の名前がついたと言われます。烏が池庭園は、江戸時代名園として知られ多くの文人墨客が訪れ、池を愛でた詩歌を詠んだと言われています。(養念寺HP参照)
相応寺は尾張藩初代藩主義直の生母相応院(お亀の方)の菩提寺。建中寺は第二代目尾張藩主徳川 光友が慶安4年(1651)、父の藩祖義直の菩提を弔うため に建立した尾張徳川家の菩提寺です。徳川家霊廟は県指定有形文化財、総門、 三門、鐘楼、御成門・本堂・経堂・開山堂 ・源正公廟は市指定有形文化財、徳興殿は国登録有形文化財となっています。
江戸時代後期の東寺町
徳川家康は名古屋城下を防備するため 西、南、東に寺町を建設しました。その 一つ東寺町は駿河町を 起点とする駿河街道(現在の飯田街道)に交差する禅寺町筋と法華寺町筋に沿って寺院群が構成されていました。北は現在の桜通、南は瓦町あたりまでにまたがり大きな門前町を形成していました。
駿河街道は八事を経由し途中分岐して中山道や家康のルーツ岡崎に通じる街 道として重要視されました。尾張名所図会には平行して伸びる禅寺町筋と法華寺町筋沿って並ぶ中小の寺院群を西から俯瞰して描いている様子が描かれています。
昭和初期までは江戸時代のたたずまいを残していましたが、現在ではビルの谷間に寺院が埋まって点在しています。
江戸時代後期の名古屋城下
月見坂は、現在の千種区覚王山付近。
名古屋城下の東にある東山では、春のひとときを三味線音色を聞きながら酒食を楽しみました。
江戸時代の末期、御器所村は大根の生産が盛んでした。このため御器所村は沢庵(たくあん)漬の産地として知られていました。
名古屋城の西、美濃路から南に延びる新道沿いには小規模な寺院が並び、西寺町を形成していました。
庄内川にかかる枇杷島橋は元和八年(1622)に完成しました。東西に二つの橋を持ち大橋は七十間(約129m)、小橋は二十七間(約50m)ある日本でも最大級の橋でした。川のなかには中島があり二つの橋をつないでいました。
下小田井の青果市は、江戸時代、山田家、野口家により創設された日本三大市場の一つでした。山田九左衛門家の住居は、現在問屋記念館として西枇杷島(清須市)に移転復元され、江戸時代の青果問屋の様子を現代に伝えています。