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明治21年(1888)市町村制の公布により翌年10月1日、名古屋に市制が施行され名古屋市が誕生しました。市庁舎は栄町交差点の南西角にあった名古屋区役所がそのまま使用されました。明治41年(1908)、 区政が導入され中区、東区、西区、南区の4区時代がスタートしました。明治42年(1909)には千種町、御器所村を編入、人口も40万を超える中核都市に発展してゆきました。
大正10年(1921)には、千種町、東山村、中村町、愛知町、常盤村、御器所村、呼続町、笠寺村、八幡村、荒子村、小碓町、六郷村、 清水町、杉村、金城村、枇杷島町の16町村が名古屋市に編入され、名古屋市の市域面積は東京市の2倍、人口は60万を超え東京・大阪につぐ 全国第3位の大都市になりました。
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開港当時の名古屋港
名古屋港ができるまで、名古屋のウオータフロントは熱田でした。熱田港の沖合いは遠浅で干拓事業には適していましたが、熱田港への大型船の入港をはばむ大きな要因となっていました。そのため当時は四日市まで運ばれた貨物を小型船に積み替えて熱田港まで回漕せざるをえませんでした。
明治31年(1898)には浚渫工事が始まり、翌年には浚渫船三隻を購入する契約が結ばれ、初めて浚渫機による港湾建設工事が行われました。名古屋港開港前年の明治39年(1906)には新聞社主催で全国を巡洋する博覧会用の船舶ロセッタ丸が入港し、海岸沿いには、多くの見物客が押し寄せました。
明治40年(1907)名古屋港が開港しました。明治43年(1910)には名古屋港第一期工事が完了し3,000トン級の船舶が最大10隻停泊できるようになり、外洋から物資が直接名古屋に入荷されることが可能になりました。明治43年(1910)名古屋港第一期工事が完了すると、引き続き600トン級の船舶の入港を可能とするため第二期工事が開始されました。
明治末頃の熱田周辺
上知我痲神社は、東海道と美濃路の分岐する追分に建てられていました。知恵の神様として「知恵の文殊(もんじゅ)さま」と呼ばれて崇拝されていましたが、国道建設のため、戦後移転され現在は熱田神宮の境内に鎮座しています。
江戸時代から続く木之挽町、大瀬子にかけての浜の魚市場は、明治・大正時代に入っても隆盛をきわめていました。
熱田神宮の東、東海道線の東側には、日本車両製造株式会社(明治29年)、熱田兵器製作所(明治37)が建設され鉄道車両や兵器の製造を行っていました。
洪水による被害や、産業の物流を担うこともあって、精進川の河川改修が計画され明治43年(1910)新堀川が竣工しました。
明治末頃の金山周辺
名古屋瓦斯は、明治39年(1906)に、奥田正香らによって現在の東邦ガスの前身、名古屋瓦斯が設立されました。名古屋瓦斯は翌明治40年(1906)に開業し、市内に初めてガスを灯用として供給しました。開業当時、名古屋瓦斯の工場は精進川(新堀川)沿いにありました。
明治19年(1886)に渋沢栄一らの援助を受けて伊藤伝七が三重紡績株式会社を創立、明治38年(1904)に尾張、名古屋両紡績会社を合併し三重紡績名古屋工場となりました。 大正3年(1914)大阪紡績と三重紡績が合併して東洋紡績株式会社となりました。
ものづくり都市への変貌
明治末頃の大須・鶴舞公園周辺
明治24年(1891)日本史上最大級の直下型地震が発生しました。濃尾地方に甚大な被害をもたらし濃尾地震と名づけられました。この地震で、根尾谷断層が地表に出現し、現在、国の天然記念物に指定されています。
岐阜出身の実業家山田才吉は、明治29年(1896)に料理旅館「東陽館」を開業しました。広大な庭園や396畳の大広間を持つ巨大な娯楽施設は、人気を呼びましたが、明治36年(1903)に火災で焼失してしまいました。その後も才吉は南陽館(明治43年)、名古屋教育水族館、聚楽園(大正5年)などの 観光施設を次々と建設、また守口漬の考案者としても知られています。
春と秋の彼岸には、多くの露店や見世物、サーカスなどが境内にならび、多くの参詣者を楽しませました。東別院参詣後は本町通を北上して大須商店街へと向う人の流れが途切れませんでした。明治37(1904)2月に始まった日露戦争は、ポーツマス条約の講和により明治38(1905)の9月に終わりました。 日本の勝利を祝う凱旋歓迎会が東別院境内でも行われました。
安政五年(1858)に出来た北野新地(大須観音の北)の遊郭は、明治7年に 大須観音の堂裏、堀川以東の五ヶ所に移転させられました。この時以来、大須界隈の遊郭を旭遊郭と呼ぶようになったといわれています。 大正12年、中村へ移転しました。
愛知県商品陳列館は明治末期に商工業の振興を目的として大須門前町に建てられたルネサンス様式の堂々たる建物。主に愛知県の工業製品が陳列されていましたが、昭和9年(1934)に取り壊されました。
第10回関西府県連合共進会は、明治43年3月16日~6月13日の会期で現在の鶴舞公園周辺で開催されました。会期中260万を越える入場者を数え、またこの博覧会を期に名古屋のインフラ整備が飛躍的に進みました。
明治末頃の名古屋駅・柳町周辺
名古屋駅の乗客数は、大正時代に入ると飛躍的にのび、大正時代中期には年間200万人に達し大正末期には400万人を超える程になりました。自動車の普及していなかった時代の一般的な交通・運送手段は人力車でした。車夫たちが名古屋駅前に待機して客待しています。
明治末頃の名古屋市中心部
御園座は、明治座を手本にして作られた名古屋で最初の大劇場。こけら落とし興行は市川左団次一座に より行われました。
明治30年(1897)、愛知、岐阜、三重を業務区域とする日本銀行名古屋支店が全国で6番目の支店として新柳町に開業しました。その後、明治37年(1904)、レンガ造りのモダンな庁舎が栄町に建設され移転しました。
中央バザールは小売商人に売り場を賃貸する小売商館。市内には名古屋商品館や 盛商館、大須バザールなどの小売商館もありました。
株式会社いとう呉服店は、茶屋町から名古屋市役所の跡地に移転。名古屋で初めての3階建ての近代的な百貨店として営業を始めました。
明治14年(1881)創立された名古屋商法会議所は、明治23年(1890)、名古屋商業会議所に改組されました。その後名古屋商工会議所となり大池町に移転しました。
栄町交差点角にあった名古屋市役所は、明治40年(1907)、火災で焼失。愛知県庁と広小路をはさんだ西側に新築移転されました。
南久屋町にあった愛知県庁は、路面電車の千種駅延長のため明治33年(1900)、議事堂とともに 南武平町に移転されました。
愛知県立高等女学校は、明治36年(1903)に開校、大正4年(1915)に愛知県立第一高等女学校と改称されました。
伝馬町にあった名古屋株式取引所は、明治19年(1886)に設立されました。一旦解散されて明治26年(1893)、株式会社名古屋株式取引所となりました。昭和3年(1928)に現在地に移転しています。
辰野金吾博士の設計で、大正3年(1914)に完成した名古屋国技館は、名実ともに日本一の国技館でした、しかし人口40万人台の当時の名古屋では入場者数も伸びず、経営も困難になり開館10年も経たず閉鎖されました。
戦前までは、東照宮の祭礼が「名古屋まつり」と呼ばれ、名古屋で最大のまつりとして盛大に行われました。各町内から山車が参加し名古屋城で終結する山車揃えが行われ、現在の「名古屋まつり」にもこの伝統が引き継がれています。
明治末頃の名古屋城周辺
名古屋城は明治26年(1893)、陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮となりました。その後、昭和5年(1930)、名古屋市に下賜され一般公開されることとなりました。名古屋城内にあった名古屋鎮台は、明治19年(1886)に第三師団と改組され司令部が設置されました。
明治29年(1896)に設置された名古屋陸軍地方幼年学校は、大正9年(1920)に名古屋陸軍幼年学校に改称されました。13歳から16歳で入校し3年間の教育が行われました。
明治14年(1881)に名古屋控訴裁判所が名古屋城の南、外堀通と本町通 の交差する、西側の角地に開所。明治19年(1886)に名古屋控訴院に改称され、大正11年(1922)、東区主税町に移転しました。現在は市政資料館となっています。 class="index">