【動画】いにしえの香り漂う 伊賀上野城下町
- 大和街道(伊賀市~亀山市)
- 伊賀市1
- 伊賀市2
- 亀山市
- ☆INDEXへ☆
三重県の歴史街道 大和街道の概要
大和街道・伊賀街道が通る伊賀国は、伊勢・近江・山城・大和の国々に囲まれた 山国で、上野盆地に入るためには、どの道を通っても険しい山を越えなけ ればならなかったと同時に、伊賀国を通らなければ相互の連絡に不自由するという 交通の要衝であった。
大和街道は、江戸時代には加太越奈良道と呼ばれ、関の西の追分で東海道から分岐し、 加太峠を越え三重県をぬけて奈良へと続く街道である。この道の歴史は古く、 大海人皇子が壬申の乱の折に、あるいは、源義経が木曽義仲を討つ折に通った加太峠越道 が、この街道の原型とされる。
この、歴史の英雄たちが駆け抜けた道は、現在はほとんどが農道となり、一部は拡張されて国道 25号や国道163号になっている。
慶長13年(1608) 、徳川家康の信任も厚い藤堂高虎は、伊勢、伊賀の藩主に移封されると、 国の防衛のため伊賀の道は険しいままにしておくようにと命じ、伊賀国への入口 とも言うべき「伊賀の七口」に兵を置いて領国を守るという政策を取った。 これは、高虎がこの地へ移封されたのが、大坂方への前進基地の意味を持つためと思われる。 同様に高虎は津を平時の時の城、伊賀を「秘蔵の国」すなわち万一の時の本城と考えて いたのである。
この街道は大和地方諸国の大名が参勤交代の折に利用する道であり、伊賀国と山城国を 結ぶと同時に木津川の水運につながり、淀川を経て、下流の京都・大坂という二大都市、 そして外洋へと続く重要なルートでもあった。
伊賀地方は大和地方に隣接し、東大寺などの影響も強かった。また、さらに古代に遡って みると、この地方は古墳の密集地帯でもあり、遙か古代から畿内の進んだ文化が 流れこんでいたことがうかがえる。
おそらく木津川という長大な流れが、人や文化を。運ぶ天然の道となってきたのだろう。
そして、大和街道はその歴史の流れを受け継いだ。街道であると言えるのかもしれない。
長田から伊賀城下を望む
県境~行者堂
より大きな地図で 大和街道 伊賀市 を表示
-
二本杭 「従是西山城國」と刻まれている
-
二本杭の由来
-
関所跡の前を走る大和街道
-
関所跡案内碑
-
関所跡から北向地蔵へ
-
北向地蔵
-
観世音菩薩
-
観世音菩薩近くの大和街道
-
だらだら坂を下り行者堂へ
-
木津川縁にある行者堂
-
行者堂案内碑
-
行者堂
島ヶ原宿
より大きな地図で 大和街道 伊賀市 を表示
-
島ケ原宿全景
-
島ケ原宿西の入口付近
-
町区公民館の火除け土手
-
本陣兼御茶屋跡
-
旧本陣・島ケ原宿案内板
-
旧本陣と町区公民館
-
文政11年には頼山陽が宿泊した旅籠松屋跡
-
ありし日の旅籠松屋
-
問屋場跡に建つ郵便局
-
問屋場の庭園の一部
-
島ケ原宿の風景
-
旅籠が並んでいたあたり
-
観菩提寺(正月堂)山門
-
観菩提寺(正月堂)本堂
-
観菩提寺(正月堂)案内碑
-
観菩提寺(正月堂)案内碑
島ヶ原から長田
より大きな地図で 大和街道 伊賀市 を表示
-
芭蕉の尻もち坂
-
三本松池付近の大和街道
-
三本松池
-
三本松峰記 石板
-
池のほとりにある祠と鳥居へ向かう
-
池のほとりにある鳥居
-
池のほとりにある祠
-
城主認可の茶屋跡へ向かう坂
-
太神宮万人講燈籠跡と城主認可の茶屋跡
-
太神宮万人講燈籠跡碑
-
お茶屋井戸跡
-
三軒屋の松尾芭蕉句碑
-
松尾芭蕉句碑案内板
-
虫籠(むしこ)窓の家
-
見とどけ地蔵
-
見とどけ地蔵解説
長田から鍵屋の辻
より大きな地図で 大和街道 伊賀市 を表示
-
掘出地蔵(お紋地蔵)と大和街道
-
掘出地蔵(お紋地蔵)と大和街道
-
橋本地蔵へ向かう大和街道
-
橋本地蔵へ向かう大和街道
-
橋本地蔵左手奥に大和街道が通る
-
長田を行く大和街道
-
常住寺
-
常住寺閻魔堂
-
常住寺閻魔堂案内板
-
長田市場を行く大和街道
-
再び木津川を渡れば伊賀城下
-
鍵屋の辻(信楽の追分)
-
信楽の追分碑
-
鍵屋の辻石碑と万屋
-
数馬茶屋「万屋」
-
日本三代仇討ち 鍵屋の辻の決闘 解説
-
伊賀越資料館 荒木又右衛門関連の資料を紹介
-
鍵屋の辻遺跡公園付近の大和街道
-
阿部神社拝殿
-
阿部神社の境内にある幸福寺地蔵堂
上野(伊賀市)
より大きな地図で 大和街道 伊賀市 を表示
上野(伊賀市) 大和街道と上野城下町
-
上野向島町あたりの大和街道
-
西町の建物
-
三筋町通りの解説
-
砂糖問屋 田中商店
-
砂糖問屋 田中商店
-
砂糖問屋 田中商店
-
明覚寺付近の町並み
-
明覚寺付近の町並み
-
万吉稲荷社
-
上野中町付近の町並み
-
上野中町付近の路地
-
道路元標
-
愛宕神社への道との分岐点 札の辻
-
上野東町方面
-
菅原神社(上野天神宮)前の鍵の手
-
菅原神社(上野天神宮)前の鍵の手
-
菅原神社(上野天神宮)案内板
-
菅原神社楼門
-
菅原神社拝殿
-
菅原神社裏手の鍵の手
-
菅原神社裏手の鍵の手
-
鍋屋
-
入交家住宅(上野相生町)
-
入交家住宅(上野相生町)前の通り
-
相生町文化会館
-
寺町(上野寺町)
-
寺町(上野寺町)
-
寺町(上野寺町)
-
寺町(上野寺町)
-
寺町(上野寺町)
-
伊賀線の脇にある玄蕃町延命地蔵
-
玄蕃町延命地蔵
-
伊賀街道(津市へ)と大和街道(亀山市関へ)追分
-
井本薬局前にある追分道標
-
伊賀街道沿いの虫籠(むしこ)窓の家
-
大和街道 芭蕉翁生家へ
-
芭蕉生家 正保元年(1644)松尾与左衛門の次男として生まれた
-
玄関から奥まで通り土間となっている
-
道標 手前に大和街道 右手に曲がると割烹旅館三田清
-
道標 「左 東 海道せき道 右ならはせ山上道」と刻まれている
-
町並み
-
割烹旅館三田清 創業200年の老舗料亭旅館
上野(伊賀市) 伊賀上野城廓
-
上野城下模式図
-
高さ 約30メートルという高石垣
-
高さ 約30メートルという高石垣
-
高石垣から堀を見る
-
建設中の五層の天守閣は1612年の大暴風で倒壊、再建されず天主台のみ残された
-
昭和10年、川崎克氏が紀州の山林家奥川吉三郎氏の協力を得て建設された
-
上野城の案内板
-
天主閣より上野城下を見る
-
俳聖殿 昭和17年(1942)芭蕉翁生誕300年を記念して川崎克氏が建築
-
俳聖殿解説(伊賀市教育委員会)
-
伊賀忍者屋敷 伊賀の土豪屋敷を上野公園内に移築
-
忍術体験館 忍者が作戦実行のために使った道具などを展示
-
忍者伝承館外観 米蔵の一部で忍術についての資料などを展示
-
永蔵(米蔵)の案内板
-
忍者伝承館内部
-
芭蕉翁記念館 芭蕉翁の真筆や俳諧の文献を展示
-
だんじり会館 上野天神秋祭のだんじり3基とめずらしい鬼行列を展示
-
旧小田小学校本館 明治14年の創建 現存する小学校校舎としては三重県で最古
-
教育資料の展示を行っている
-
上野高校明治校舎 現存する明治建築として近代を語る代表的なもの
-
上野高校明治校舎玄関
-
旧崇廣堂 文政4年の創建 藩校の遺構として全国的に稀な国の史跡
-
玄関棟 教員の控え室や事務職の部屋として使用された
-
旧崇廣堂の全体模型
-
講堂 このような広間型講堂で現存するのは他に閑谷学校(岡山)のみ
-
講堂内部
-
明治な館 北泉邸 明治初期建造の初代上野警察署庁舎であった建物
-
伊賀上野城西大手門跡
- to page top