- INDEXへ
- 伊勢湾岸の桜
- 桑名石取祭
- 関宿祇園夏まつり
- 伊賀上野城下町
- 伊賀流忍者博物館
- 高田本山専修寺と一身田
- 商都松阪と本居宣長
- 斎宮と斎王まつり
- お白石持行事(伊勢神宮 式年遷宮)
- 伊勢河崎商人館
- 鳥羽市の歴史と名所
- ミキモト真珠島
- 鳥羽水族館
- 海の博物館
- 志摩市の歴史と名所
伊勢街道 明和町
※以下の文章は斎宮歴史博物館 榎村寛之氏(学芸普及課長 文学博士)にインタビューをおこなったものを要約したものです。 2011年6月取材
斎宮について
斎宮というのは、単純に言うと古代から中世にかけてお姫様が住んでいた宮殿です。
この宮殿に住んでいたお姫様が斎王と呼ばれる女性で、斎宮というのは斎王の宮殿という意味です。 斎王というのは、天皇に代わり伊勢神宮に仕えるための皇族の女性であって、いわば天皇の名代として伊勢に派遣されてきている人です。この斎宮の遺跡が斎宮跡という形で現在国の指定した史跡になっており、現在も発掘調査が続いています。
斎王群行
斎王というのは天皇一代に1人、占いによって選ばれます。条件は未婚である事。選ばれてから大体2年後の9月、都から伊勢へと5泊6日の旅をしてきます。これを斎王の群行という言い方をします。都から近江、伊勢を経てここ斎宮にいたる。現在でいいますと京都府、滋賀県へて三重県に入ってくるルートです。 数百人の人間が斎王とともに旅をしてくるので、群れて行く「群行」という言い方をするわけです。
平安時代、天皇が京を離れるというのは実はひじょうに珍しいことで、遠くても奈良の春日大社に行幸をするぐらいまでですから、天皇一代でももっとも華やかな行列の一つでした。そんなこともあり斎王というと群行というイメージが非常に強い.
斎宮歴史博物館といつきのみや歴史体験館
斎宮歴史博物館は、1970年に発掘調査が始まった国史跡斎宮跡の調査成果、および斎宮とは何かということを広く公開するために1989年(平成元年)にオープンした県立の博物館です。ここでは斎宮で何が見つかっているのか、そして斎宮とは何かということを主に展示していると考えていただいて結構です。
開館当時からさまざまな体験学習を行ってきましたが、1999年(平成11年)、体験機能だけを独立させた「いつきのみや歴史体験館」という施設を別途にオープンさせました。十二単の試着であるとか、平安時代の遊びたとえば盤双六(ばんすごろく)、貝覆い(かいおおい)、毬杖(ぎっちょう)と呼ばれるボールゲームなどを実体験できる施設として、あるいは衣食住にかかわるいろんなイベントを博物館と連携して行う施設という形で、見るだけではない斎宮について体感をしてもらう、そういう機能を持たせた施設ということになります。
斎宮の遺跡
1970年に斎宮の遺跡が最初に確認されたのは、この博物館の南側、斎王の森から西に約1キロほど離れたところでした。こんな所から斎宮の遺跡が見つかるとは、当時全然考えられていなかったわけで、斎宮というものの範囲は想定していたよりも相当広いのではないかということが判ってきたわけです。それを受けて三重県がそれから約10年間、範囲を確認するために発掘調査を行いました。
その結果わかってきたことは、斎宮の遺跡は時代ごとに場所を変えているらしい。その場所を変えている範囲を全部おさえていくと、少なくとも東西が2キロメートル、南北が700メートルにわたるということが判ってきたわけです。
1979年(昭和54年)にこの範囲を国の史跡として指定し、開発を規制し保護していく方針がたてられて承認されました。
史跡のなかを走る伊勢街道
史跡のなかに数百軒の民家があります、1本の道に沿って存在している。この1本の道というのが江戸時代の伊勢街道です。
もともとこの伊勢街道が奈良時代末から平安時代前半かけて整備をされた斎宮のなかの直線道路のなかの東西の道路の1本、これが原型になっているらしい。現在の伊勢街道は奈良時代の末期くらいの区画の上に乗っている形で、そこに江戸時代の竹川と斎宮という二つの集落が乗る形になったということになります。
これから数年の間に道路が整備をされたり、あるいは実物大の斎宮の建物が再現されるなどの計画が現在進行中です。数年以内に斎宮がサイトミュージアム、史跡公園としてより整備されてくることになります