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松阪商人の館 外観松阪商人の館は、江戸期の屈指の豪商・小津清左衛門の邸宅を資料館として公開、前の道はお伊勢参りの旅人が行き交った伊勢街道(参宮街道)
伊勢街道 松阪市
※以下の文章は、本居宣長記念館 吉田悦之館長にインタビューしたものを要約したものです
蒲生郷里による松阪城下建設
松阪城から見た松阪中心部松阪の町は、戦国時代に蒲生郷里(がもう うじさと)が築城した城下町として出発しました。
江戸時代になってから 松阪の町は紀州徳川家の支配下になり、1644年天守閣が台風のため倒壊しました。その翌年から松阪の町の歴史は大きく変わっていきました。
和歌山へと通じる道が分かれて出来てゆきます、また熊野へ行く道も出来ます。街道の要衝として松阪の町は次第に力を持ってきます。
松阪の地が本居宣長を生んだ 豪商たちの富と情報
この街道を使って松阪の商人たちが全国へ進出を始めてゆきます。
三井家、長谷川家、小津家などの全国的にも名だたる豪商たちが登場してくるわけですが、 豪商たちが蓄えたお金、情報、豊かな時間というものを背景として登場してきたのが本居宣長という人物です。
本居宣長は1730年に本町の木綿商の息子として生まれました。商家の息子として生まれましたが、 事情があり結局商売をやめて医者の道を選びます。そして松阪の町で医者をやりながら自分が好きな日本の古典のを研究します。 そのとき本居宣長の大きな力となったのが松阪の経済力、地理的な条件、情報量といったものでした。
商家の主人たちは松阪におります。そして手代とか番頭が江戸、京都、大阪などで商売をする。主人のところへ逐一報告が入り、ひじょうに幅広い情報が もたらされる。しかも松阪の町は、伊勢神宮に向かう人たちが全国からこの町を通るので、その人たちからもたらされる全国の情報、またその人たちを使って 全国に向かって情報発信をすることも可能でした。
本居宣長の業績と鈴屋
宣長が11歳のとき父親が亡くなったこともあり、宣長12歳の時、宣長家族は魚町にあった隠居屋敷(宣長の祖父が建てた)に移ります。 宣長12歳の少年時代から亡くなるまで、この隠居屋敷に住み続けます。この隠居屋敷が本居宣長旧宅といわれています。
魚町にあった本居宣長旧宅を明治42年(1909年)、火災などから守る、またたくさんの人に見て頂こうということで松阪城蹟の中に移築しました。
松阪市立歴史資料館
※以下の文章は、松阪市立歴史民俗資料館 仲村隆彦館長にインタビューしたものを要約したものです
伊勢白粉の流行と射和(いざわ)の繁栄
丹生という所に水銀の鉱脈がありまして、そこの水銀を使って射和(いざわ)の土とにがりとか塩を混ぜて四時間ぐらい熱して、 きらきら光るきれいな伊勢白粉を製造しました。
江戸や京都の女性にも人気のでたナンバーワンの白粉でした。これが伊勢の特産品として売れ射和(いざわ) の町が栄えたといわれています。