ねずみ坂いたち坂
ねずみ坂、いたち坂と呼ばれていた坂があった。ねずみやいたちが顔を出すという坂ではない。 ねずみ坂は「寝不見坂」の意だ。月があまりにも美しいので、夜通し、寝ないで月を眺めていたいという坂の意味で付けられた俗名だ。
十五夜を過ぎ、十六日に出る月を十六夜という。十六夜の次は立待月だ。月が東の空から出てくるのが、しだいに遅くなる。十七日には、立って月が出てくるのを待っているので立待月と呼ばれた。 十八日に出てくる月は、居待月と呼ばれた。「居る」は、座るという意味だ。月が出てくるのが遅いので、立って待つことができない。座って待つところから居待月というのだ。
「いたち坂」は「居待月」と「立待月」とを取って付けられた名前だ。十五夜過ぎの十七日、十八日の少しかけ始めた月を賞でるのに、最適の場所がいたち坂であった。いたち坂は南鍛冶屋町にあった。
月の名所のねずみ坂は、南大津通りから東に下る坂だ。現在でも、南大津通りから東に向けて、ゆるやかな勾配が続いている。そのむかしの坂は、長く急勾配であった。この南大津通りから東側の広小路通りから南、若宮大通りから北の地域は、大坂町、月見町と呼ばれていた。広小路寄りが大坂町、若宮大通り寄りが月見町だ。 ねずみ坂は、月見町の中を南大津通りから東へ下る坂の名前だ。
月見町という町名も、月を眺めるに最適のねずみ坂があったところから付けられた名前だ。 月見町という町名が付けられたのは、明治十一年十二月のことだ。 月見町の北側、大坂町も、南大津通りから長い坂が東側に伸びているところから付けられた町名だ。
長屋の密集している月見町、大坂町の東側には田圃が続いている。田圃の畔には、さまざまな野の花が咲き乱れていた。坂の上からは美しい田圃の畔を月が照らしていた。えもいわれぬ光景であった。 江戸時代の月見町には、中間が住んでいた。大坂町は下級武士の住む町であった。間口二間、奥行四間ほどの家が軒を並べる八軒長屋に、中間はくらしていた。下級武士も中間と大差ないようなくらし向きであった。
明治時代になると、これらの人たちは手仕事をする職人となった。 坂の上の南大津通りには、大正時代になり、松坂屋が進出してきた。高層ビルが立ち並び、一流の会社が軒を並べていた。 坂の下の月見町、大坂町には家屋が密集した長屋が続き、その日ぐらしの職人たちがくらしていた。坂の上と下では、くらし向きも町のありさまにも雲泥の差があった。
現在の月見町、大坂町のあった辺は、月を賞でる場所ではなく、美人を賞でるスナックやクラブの並ぶ地にと変わっている。