お小屋
国道十九号を大須から金山に向けて、車を走らせる。東別院線を越すと東側に、不老園という菓子屋がある。不老園は幕末から菓子を製造している老舗の店だ。この店は、戦前は橘町の本町通りの大木戸のあった地の東側で商売をしていた。不老園で生まれ、長い教員生活を送り、今は石川橋で悠々自適の生活を送っていらっしゃる牧野先生にとって、東別院は、幼い頃よりの遊び場所であった。牧野先生から、お小屋についての話を聞いたことがある。
「東別院の前の大通り、あそこはお小屋と呼ばれた長屋が建っていました。お小屋というのは、田舎から出てきた信徒の人たちが、寝泊まりをする場所でした。そのお小屋が、日露戦争や第一次世界大戦の時には、ドイツ兵の捕虜の収容所になりました。」
さっそく『大谷派本願寺別院三百分の一図』を開いてみる。この地図は、名古屋別院蔵の明治初期に描かれたものだ。字が細かく、はっきりと判読できない。しかし、現在、東別院線が走っている地には、大小無数の小屋が描かれている。小屋には、かすれた字で、判読できない部分が多いが、海東郡講、春日井郡講と書かれている。海東郡や春日井郡から、東別院に奉仕と参拝に来た人たちの宿泊施設が、これらの長屋であったのだ。
地下鉄の東別院駅の一番出口を出て、東側の大通りを北に向って歩いてゆく。西側に、平屋建ての木造家屋がある。家の前には、中島郡詰所と書いてある。ここが、中島郡のお小屋であった家だ。
『名古屋別院史』には、中島郡の講組織についての詳細な記述がある。それによれば、中島郡会は、一宮組・萩原組・山崎組・福島組・稲葉組・高木組という六つの組で現在も構成されているという。福島組の場合は、平成二年現在、旧中島郡千代田村の二十集落を範囲としていて、門徒は八千人程、一戸当たり八百円の講金で各行事を行なっている。 全体の行事の中で、もっとも大きなものは、十一月と十二月に本山と別院へお華束を作って奉納することだ。十一月は、十九日の朝七時半頃から餅搗きを始め、午後二時頃には、報恩講のお華束としての米六俵分が搗き終わる。
十二月の正月用お飾り餅は、十二月二十八日に餅を搗いて、その日のうちに奉納する。やはり米六俵分とのことだ。 こうした講に結集した門徒の力は、文化・文政期の御堂再建工事を支えた力であった。 高力猿猴庵『絵本続富加美草』は、文化十二年(一八一六)正月十九日の地築始めを次のように記している。
此日の群詣は八郡のミにもあらず。遠近他郡の老若男女うちむれて、雲のごとくおこり霞とともにたちつづく。 大門の礎にハ数多の奉助、寄付の品々山のごとくにつミ餝り、御堂二日講、御花講、十六日講、廿五日講等立札各々高々と数の俵、或は酒樽、せいろうの類ひ有るが中に、中嶋郡二十八日講中として、棟梁の裃、并酒樽を送り、惣大工中へと張札して、蒸籠あまたならべたり。
はなやかな地築始めの行事の主役は、各講中の信徒であった。再建のための石を運び、土を固める作業をしたのは、すべて信徒たちの力である。 現在、唯一残っている中島郡の詰所は、これらの信徒たちの宿泊所であった所だ。
地図
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