沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第3講 七墓巡礼歌のみち 第13回「をいたる奴もつまらねど長島町―明倫堂跡」

をいたる奴もつまらねど長島町―明倫堂跡

尾張全図の中の名古屋城図(江戸時代). 江戸時代、三之丸に置かれていた東照宮と亀夫天王社(那古野神社)が明治9年、三の丸に名古屋鎮台が置かれたことで地図下の明倫堂の地へと移転した

尾張全図の中の名古屋城図(江戸時代). 江戸時代、三之丸に置かれていた東照宮と亀夫天王社(那古野神社)が明治9年、三の丸に名古屋鎮台が置かれたことで地図下の明倫堂の地へと移転した

長島町は、片端通から三ツ蔵通までの南北道路長島町筋の北端にある町で京町筋と杉の町筋の二丁をさす。南は島田町、西は桑名町、東は上長者町に接する。

『那古野府城志』には、

役銀一貫六百七十八匁。慶長中(一五九六~一六一四)爰に遷り旧に仍て名とす。井深二丈八九尺、水佳、土黒土赤土砂。御祭礼大江山入、初空也上人鉢扣、元禄十六未年(一七〇三)武者に換る、元文四未年(一七三九)大江山入に改む。

と記してある。いわゆる清須越の町で、清須の長島町を移した。隣の桑名町と同じく、伊勢の長島町と関係がある町名かも知れない。御祭礼とは、

   引込む笛の声を聞いては 寝られぬままに来てみればはや
   東にならぶあげはりのかげ 西にかたぶく月のさやけさ
   車の近うなるをたのしみ 門のあくこと遅きを恨む
   鴉も今朝は人におこされ あけぬ先からうかれ出るかな

と詠まれた四月十六、十七日の名古屋まつりのこと。長島町は大江山入の山車をだした。 名古屋まつりは、

諸国年中行事といへる書物にも、此御祭礼を載たれば、都鄙、遠境にもかくれなし。さればこそ、数十里をも遠きとせずして、拝見の群衆夥し。是は車楽競子等の花麗なるのみにあらず、御行列の殊厳重にして、世に双の無故なりとぞ 『尾張年中行事絵抄』

と書かれている程、華やかさを極めたものであった。 大勢の人々が本町通から若宮八幡社にゆく山車を見物した。

東照宮と那古野神社のあいだにある明倫堂跡の碑

東照宮と那古野神社のあいだにある明倫堂跡の碑

長島町には九代藩主徳川宗睦が天明三年(一七八三)に開設した明倫堂がある。

明倫堂初代の総裁(のちに督学)には、上杉鷹山の学問の師として知られる細井平洲が招聘された。 細井平洲は知多郡平島村(現在の東海市)の出身、幼少から学問を好み、十歳で名古屋、十七歳で京都に遊学した。宝暦元年(一七五一)、師の中西淡淵に付いて江戸に出て塾を開く、明和元年(一七六四)、上杉鷹山の師となる。明和九年(一七七二)、尾張藩主宗睦に招かれて名古屋にもどり、明倫堂で授業を開始した。 平洲の講義は平明で、わかりやすく、百姓、町人までが聴講した。

彼は名古屋のみならず各地から招かれて、講義に出かけた。天明二年(一七八二)の三月十五日から十七日までの津島での講義には一万八千人、二十二日から二十四日での鳥居松(春日井市)の講義には一万人の人が彼の話を聞きに押し寄せた。いかに彼の講義が人気が高かったかを証明する数字だ。 彼の講義の評判が高まるにつれ、旧来の儒者の講義は下落した。当時、作られた狂歌に、

売れぬもの寺の奉加に大丸屋茶屋の料理と朱子学の本

と詠まれた。 明倫堂の聖堂は明治七年(一八七四)、千円で岐阜県羽島市の永照寺に売渡された。今も羽島の地に建っている。