水不足にあえいでいた知多半島地域に用水するため、愛知用水の建設の機運が高まった。1957年11月に始まった工事は、1961年9月に完成。 知多半島の先端まで水の供給がおこなわれることになった。
水を待つ町
※以下の文章は、相川成三さん(元南知多町議会議長)にインタビュー取材したものを要約したものです。
愛知用水が引ける前はね、特に知多半島の先端は水がなくてね。各所の井戸が塩が差してくるんですね。雨が降って地下水が流れてくる間はその水圧で普通の真水が飲めるんですけど、でもちょっと照りが続くともう塩辛くなってきて、まったく飲めない水になってしまう。酒屋のね井戸、その水道(みずみち)だけが真水が出てね。うちの近くにもそういう井戸がありまして、そうするともう、あちこちから水をもらいに行くんですわ。リヤカーとか天秤棒でね。もう本当に水がなくて困ったと。篠島、日間賀島、佐久島、そういう島がね一番助かったと思います。 愛知用水が引けなかったら、今の島の発展はないんですわ。
愛知用殉職者の慰霊
(南知多町にある愛知用水報恩 水利観世音には)愛知用水の工事で確か56人だったと思いますが殉職された方を祀ってあるんです。毎年10月18日鎮魂の行事をやるところなんです。
※以下の文章は、愛知用水総合管理所 小酒井徹所長にインタビュー取材したものを要約したものです。
水不足に悩む知多半島
知多半島はもともと大きな川がなくて、雨がすぐに海に流れてしまうような小さい川しかないんですね。 ということで、農業やられてる方は一杯溜め池を作って、その溜め池を農業の水源にして農業をやられてたと。 その溜め池というのも、13,000ぐらいあったそうですけども、浅いさら池でですね、ちょっと日照りが続けばすぐになくなってしまうような、そんな池だったそうです。
水田に水を入れるのに、ひしゃくだとか羽根つるべというやつで水をかけられてて、もの凄い重労働で苦労されてたわけですね。なんとか木曽川の水を知多半島の方に持って来れないだろうか、そういう構想が脈々と受け継がれてたそうです。
昭和の19年、 昭和の22年とものすごい大きな干ばつがあったそうで。昭和の22年の干ばつというのは特に秋の農作物が全く穫れないような状態だと。(そこで)久野さんとういう方が用水を作ろうじゃないかということで立ち上がられたということですね。
牧尾ダム誕生の経緯と取水口の位置選定
もともと川を使っている人たちがいっぱいいるわけですね。農業で使われていたり、発電で使われていたり、元々使っていた人たちが使う権利を持っているわけですね。で、その権利を侵さないように取水をしなければいけないという問題があったということですね。 牧尾ダムというダムを造って、そこのダムで水を開発をして、開発した水で知多半島に持ってくる。 木曽川筋というのは明治から発電で開発をされてきた。新しく愛知用水でダムを造ろうという時に、候補地というのが限られていたみたいですね。
丸山ダムがまだ建設していない時代だったので、丸山ダムに貯めさせてもらおうかとかいろいろ案があったそうですけど、最終的には建設費の話しだとか、工期の話しとか地質だとか、そういうのを総合判断されて牧尾ダムのところに設置することになったと。
世銀(世界銀行)がですね融資する条件として、ロックフィルダムを造りなさいと。ロックフィルダムというのをこれからどんどん普及していったらどうだと、そういう判断があってですね、牧尾ダムの位置にロックフィルダムを造ろうということで、全国に先駆けて造っていったということみたいですね。 途中でポンプアップだとかせずにですね、水の重力の流れだけで知多半島の先まで水を送ろうということになるとですね、ちょうど標高的に兼山付近になるということですね。 関西電力さんの兼山ダムもありますので、ダムのせき上げ水位を利用させていただけるとですね、自然流下で末端まで水が届くということで位置が決まったと思います。
基準点流量による取水制限
兼山の取水口がありますね。その取水口から毎秒10トン水が欲しいよって時に取水をするんですけども、木曽川には基準点流量というものが設定されておりまして、そこから闇雲に取るわけにはいかんのですよ。木曽川の流量がある流量以上の場合はその水を取水していいんだけども、流量が少なければダムから補給しなさいということになってるんですね。明日から何トンになりますかとか予測を立てた上で牧尾ダムに依存する量というのを毎日決めてまして、翌日運用するという形をとっていますね。
サイフォンと調整池の役割
サイフォンというのは川とか谷を横断するときに、貫水路で地下を水が潜っていくという構造の物なんですけど、そういう物で川とか谷を渡っているということですね。ちょうどここ(東郷調整池)のところに20mほどの落差があったんです。うまく調整池としてつかえるなということでここを調整池にしたということなんですけど。
南部臨海工業地帯の造成
臨海工業地帯に工場がどんどんどんどん誘致されましてですね、今の新日鐵が誘致を決めるとその後重化学工業がどんどんどんどん進出してきたということです。それにともなって工業用水の需要がもの凄く増えてきた。工場に勤める人たちが周辺に住むようになって、そういう人たちの水道用水も増えてきたということで、佐布里池という池を愛知県さんが造られた。
前山ダムと美浜調整池
農業用水を増やすためのもので、ダムを造ってそこに農業用水を貯めて必要なときに得るようにしました。幹線水路の一番末端にですね、美浜調整池という池を造りました。最末端で余った水を蓄えて、それを美浜調整池からつながっている師崎という支線で使いましょうということで造った調整池です。
協力
独立行政法人 水資源機構
愛知用水総合管理所
知多市
東海市
東郷町
南知多町
樹林舎