木津用水から岩倉街道・稲置街道追分
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稲置街道・岩倉街道追分から犬山城下へ
名鉄犬山線犬山口駅の北で岩倉街道と稲置街道は合流し下本町、中本町、上本町を通り犬山城へ進む。
追分から300m行った右手の徳授寺は臨済宗妙心寺派の寺院。下本町の西、下大本町にある庚申堂は三叉路に建っており全国的にも珍しい。
犬山市役所近くの愛宕神社は、かっての木ノ下城があった場所。木ノ下城は、応仁3年(1469)、尾張国守護代の織田敏広により、美濃国の斎藤氏の 防備として築城された。天文6年(1537)、織田信長の叔父にあたる織田信康は、木ノ下城を廃城し木曽川南岸に犬山城を築城した。
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犬山城下
本町交差点を渡り、中本町へ進む。本町交差点の北東角にある真野邸は、明治27年(1894)に建造された丹葉銀行頭取の本宅。その北の左手の町屋邸どんでんの向かいにあるのがどんでん館。
どんでん館では、犬山祭で曳かれている高さ8mの車山が4輌展示してある。車山が辻で方向転換する様を「どんでん」と呼んだことから名づけられた。
旧磯部邸は、江戸期の建築様式を持つ木造家屋。主屋は幕末に建てられたと伝わっている。 緩やかなふくらみのある「起り屋根(むくりやね)」は犬山市内の町家で唯一現存しており、正面は2階建て、裏は平屋の「バンコ二階」と呼ばれる造りになっており登録有形文化財に指定されている。
大正初年の建築で、昭和初期まで酒造業を営んでいた高木邸、遠藤邸を右手に見て100mほど進むと高札場・問屋場・火の見櫓跡の前に来る。周辺の街道の両脇には「なつかし屋」「井上邸」「山田五平餅店」が並ぶ。
上本町には、天保十一年(1840)八代城主成瀬正住が建てた犬山藩校敬道館跡、犬山の文化財を紹介する「犬山市文化史料館」、九代玉屋庄兵衛氏による からくり人形細工の実演を見学できる文化史料館の別館「からくり展示館」などの文化ゾーンが広がる。
本町の東側の大上本町にある、常満寺は、鎌倉中期正応年間(1288-1293)に定照東安和尚により建立された。境内には中部椿の代表花、 「関戸太郎庵」の椿の実から成長したという有名な木「常満寺椿」がある。
その南に位置する専念寺は、弘治元年(1555)犬山城主池田勝入の創建した浄土宗の寺院。その後小笠原、平岩代々城主の菩提寺となり平岩家の墓所がある。
本町の東側の新町には宮田邸が、東古券の小島醸造は慶長2(1598)年創業の 忍冬酒の製造元。製法は文禄・慶長の役に従軍した2代目小島弥次左エ門が、捕虜となった朝鮮人捕虜を助けた際に御礼として製法を伝授されたそうだ。現在の建物は江戸後期建築の貴重なもの国の登録文化財の指定を受けている。
さらに西側の東古券には熊野神社、浄誓寺、圓明寺、西蓮寺、本龍寺などの寺社が集積している。
県道27号線の余坂の交差点の西にある奥村邸の主屋は天保13年(1842)の大火の後に建てられた国の登録文化財。邸内の「銀明水」は、天正10年、武田勝頼討伐のために安土城を発した織田信長が、 ここに立ち寄り水を飲んだといわれている。
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犬山城下周辺
犬山城廓に入ると綱針神社の鳥居が見える。綱針神社は延喜式神明帳所載の式内社で、濃尾の総鎮守であった。天文6年(1537)織田信長の叔父である織田信康が、木の下城移転のため犬山市白山平(犬山城の東方にある山)に遷座。慶長11年(1606)に白山平から名栗町に遷座され、犬山城主である成瀬氏の祈願所となった。明治維新の後の明治15年(1882)に名栗町から、1537年まで座地であった 現在地に遷座された。
犬山城は、天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康によって木之下城より城郭を移して築いたといわれる現存する日本最古の木造天守閣。
江戸時代に入り、尾張藩付家老の成瀬正成が城主となり、幕末まで城主を務めた。平成16年に財団法人に移管するまで日本で唯一、個人(成瀬家)所有の城であった。
犬山城の西側、名鉄犬山ホテルの敷地内にある有楽苑には、信長の実弟、織田有楽斎が建てた国宝茶室如庵や重要文化財旧正伝院書院がある。
如庵は、茶の湯の創世期に尾張の国が生んだ大茶匠・織田有楽斎が建てた茶室で、昭和11年(1936)に国宝の指定をうけた茶道文化史上貴重な遺構。現存する国宝茶席3名席の1つとなっている。
旧正伝院書院は有楽齋の隠居所として如庵に隣接して建てられている。
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