生駒屋敷跡・小折城跡周辺
小折本町白山から江南市。岩倉街道の西に平行して走る道沿いの市立布袋東保育園のあたりから西の龍神社あたりなで生駒屋敷跡・小折城が広がっていた。生駒屋敷は小折にあることから「小折城」とも呼ばれ、織田信雄が 尾張藩主となると、今までの屋敷を外敵から守る機能を持つ城に造り替えた。
生駒氏は応仁の乱の戦火から逃れて大和(奈良県生駒市)から尾張の小折に移り住んだ。生駒氏は灰(染物の原料)と油を商う馬借(運送業)で財を成し 、大きな勢力を持つようになった。
武功夜話によれば、 若き日の秀吉(日吉丸)も生駒屋敷を訪れ蜂須賀小六の輩下となり、吉乃の方のとりなしで信長の下僕に取り上げられたと記されている。また、永禄三年(1560)の桶狭間合戦の奇襲、西美濃攻めの戦略はこの地で練られ、戦いの戦費は生駒八右衛門家長によって賄われたという。
市立布袋東保育園から西南にある久昌寺は生駒家の菩提寺。生駒氏の三代家宗の娘、吉乃の方は織田信長の室となり、信忠、信雄、五徳の二男一女を生んだが、産後の肥立ちが悪く、永禄九年(1566)5月13日、29歳の若さで新築となった小牧城でこの世を去った。境内にある墓地に埋葬されている。
龍神社は生駒屋敷の西の檜の多い静かな森の中にある。生駒屋敷の絵図を見ると城内には大きな池が描かれており、この辺り一帯は低地帯だったことが分かる。雨壷池の付近には生駒屋敷が拡がり、吉乃の方が織田信長と会い、青春を楽しんだ「吉乃御殿」が社務所の辺りと伝えられている。
龍神社北側の常観寺は曹洞宗で、創立は不詳だが、縁由によると嘉祥・仁寿(850年)のころ、参議篁が地蔵菩薩銅像を鋳造してまつり、桜雲山常観寺と名付けたのが起こりといわれている。久昌寺の末寺で生駒氏の庇護のもとに栄えてきた。尾張六地蔵の一つとして有名。
般若寺は、明徳二年(1391)に僧大雲が創建、大等一祐和尚に請じて開山とした。その後戦乱で衰えたが、永禄年間に生駒氏が祈願所として再建、久昌寺の末寺として般若寺となったが、ふたたび戦乱により衰退。徳川家光の時代になって生駒因幡守利豊によって改築されかっての姿を取り戻した。
小折から北に岩倉街道を進み、南山町の交差点を過ぎた右側にあるこんもりとした丘が富士塚。
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの折り、生駒家長は織田信雄の命を受け 伊勢長島城を守り、小折の城は留守で、嫡子の利豊はまだ幼く庶兄の右近が小勢で守っていた。徳川家康はこれを気ずかって、織田信雄とともに小折の城を訪ねた帰途、この富士塚に立って敵情を視察したという。
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江南市中心部
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江南市中心部の史跡
生駒屋敷のあった小折から2kmほど岩倉街道を行った右手にある若宮八幡を右手に見て400m弱進んで、岩倉街道から左手に曲がって300mほど進んだ ところに前野家屋敷跡がある。
前野氏はこの地の有力者で、生駒氏や蜂須賀氏らとも姻戚関係にあった。前野長康は織田信長・豊臣秀吉に仕えた古参の重臣だったが、豊臣秀次の 謀反事件に連座して切腹した。昭和34年(1959)に土蔵から「武功夜話」などの文書が発見され話題を呼んだ。
「武功夜話のふるさと」
吉田孫四郎は天正12年(1584)、織田信雄の家臣であった前野家十五代の雄善の長男として生まれた。
幼少のころ、清須の総見院に人質として預けられ、恵仙と名乗り、その寺で 教えを受け学問を修めた。15歳になった孫四郎は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦に、父とともに東軍福島正則のもとで初めて戦いに参加した。
翌々年、父が松平忠吉に仕えていた時、清須城で不祥事をおこしたため、浪人となり前野村に帰ってきた。父雄善の後を継いだのが孫四郎で「かつかね」ともいい、武門を捨てて百姓に なり庄屋を務めた。また、キリシタンからの改宗のあかしに前野姓から吉田姓 に改めた。
孫四郎が「武功夜話」の編さんに着手した動機は、祖父雄吉そして父雄善とも に前野家に関わる数々の出来事を記録し、一書にまとめていたことと、文書類を整理中であった父が、慶長10年に先の戦いで受けた槍傷がもとで死去してしまったことによるもの。
そこで孫四郎は父の意志を継ぎ、武門が途絶えるのを惜しみ、後世に前野氏の 由来や祖先の功績などを残すことを決意した。孫四郎は、仕事のかたわら執筆のための資料整理にとりかかり、寛永11年(1634)から永い年月をかけて、遠くは源平の戦いから織豊期までの数々の出来事を克明に「武功夜話」二十一巻にまとめた。 (江南市役所HPより)
前野家屋敷跡から北西900mほどの江南自動車学校の東の道沿いに宮後城跡(蜂須賀屋敷跡)の標柱が立っている。
蜂須賀家屋敷跡は、宮後八幡社の北西にあったと伝えられている。その屋敷は県道から南へ伸びた広い屋敷で、周囲に土居や濠をめぐらした跡がうかがえ、当時、屋敷の人たちが使った古井戸も石碑付近にあった。昭和43年、県道一宮犬山線が斜めに屋敷跡を通ったため、屋敷は分断され古井戸も埋められてしまった。
宮後城は守護土岐氏の配下である安井氏が長く居住したもの。蜂須賀小六正勝の父、正利の妻はこの安井氏の娘で、小六は母の在所に いたわけだ。
常蓮寺は、阿波守蜂須賀家政の篤志によって寛永元年(1624)に建立された。
蜂須賀家政は安土・桃山時代の武将で、永禄元年(1558)に蜂須賀正勝の長男として、尾張国丹羽郡宮後村(現在の愛知県江南市)に生まれた。秀吉の天下統一に貢献した父、蜂須賀正勝の代わりに阿波国の大名に 任じられて徳島藩祖となった。
名鉄犬山線江南駅の北東200mほどの所にある北野天神社は、北野天神社は菅原道真をおまつりした神社で「北野の天神さん」の愛称で親しまれ、学問の神として尊ばれてきた。
その他の古刹
名鉄犬山線江南駅の北方、飛保町寺町にある 日輪山曼陀羅寺は西山浄土宗に属する寺院。
西山浄土宗の古刹で尾北地方における最も格式の高い霊場。寺域は1,300坪、檜皮葺の正堂を中心に庫裏、大書院、小書院、曼陀羅堂、地蔵堂、鐘楼、宝蔵、続いて中門、南門(矢来門)が甍を連ねている。
山内にはさらに塔頭の8か寺があり、尾張徳川藩より寺領231石余りを給地されていた名残りをとどめている。 寺域の一部は市の管理のもとに曼陀羅寺公園として整備され、園内には12種類約60本の藤が植えられて「曼陀羅寺の藤」として有名である。
また、久野町寺町にある音楽寺は、元暦元年(1184)に源詠法師が開基したと伝えられ、当初大乗院と称したがのち音楽寺に改称された市内最古の寺。毎年6月には「あじさいまつり」が開催される。