沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第19講 御用水跡街園 第6回「べか舟が運んだ人と物──黒川船着場」

べか舟が運んだ人と物──黒川船着場

高速道路の下にあるのが北清水橋。川を挟んで左側の親水広場はかつての船着場の一つ。

高速道路の下にあるのが北清水橋。川を挟んで左側の親水広場はかつての船着場の一つ。

※この文章は2004年6月に執筆されたものです。

北清水橋から堀川を見おろすと、護岸にはサツキが植えられ、川沿いに散策路があって、橋の近くは広場になっている。人工の滝が落ち、花や水生植物が植えられ、昔の常夜灯のようなものも設けられている。ここは、かつて黒川の船着場だったところだ。

すぐ上流には小さな黒川橋がかかっている。この橋は、かつての幹線道路「街道」が通っている。今は国道四一号が通る北清水橋が幹線道路だが、この道は昭和になって整備されたもので、黒川が掘られたころはまだなかった道だ。黒川は、犬山と名古屋、さらに熱田を結ぶ舟運路を開くことで、城下町から近代産業都市へと名古屋の都市再生をめざして開削された。

明治になり列強諸国に伍して日本が存続してゆくには、殖産興業が必要であるとして国は急速な工業化をはかった。工業振興には資材や商品の大量輸送が必要であるが、鉄道やトラックが普及するまで、それが可能なのは船だけであり、水運業の確立と港湾の整備が一番の課題であった。

明治三年(一八七〇)ころには熱田と四日市を結ぶ汽船による定期航路が始まり、五年には堀川から四日市への航路がこの地方の事業家により開設されている。八年になると、三菱商会により開港地横浜と四日市を結ぶ定期航路が始まり、十年に西南戦争が勃発すると、軍は名古屋鎮台の兵を輸送するため、三菱商会に四日市と熱田の定期航路運行を命じた。戦争終結後の運航は危ぶまれたが、愛知・三重、両県などの補助金により継続することになった。これにより、開港地横浜から四日市を経由して熱田を結ぶ動脈となる定期航路が確保された。

明治44年頃の矢田川伏越とべか船

明治44年頃の矢田川伏越とべか船

あわせて必要なのは、内陸部へと広がる航路である。そこで、明治十年に黒川の開削と熱田での波止場築造が行われたのである。黒川開削と同時に、犬山から庄内川まで続く新用水の幅を広げて、船を運航する計画であったが、地元農民の同意を得られず、拡幅事業は遅れ、明治十七年になってやっと完成した。

明治十九年二月六日には犬山と名古屋を結ぶ舟を運行する「愛船株式会社」が設立され、農業用水の取水に支障のない毎年九月二十一日から六月十日まで運航した。九月二十九日、開業式が犬山の木津用水(取水口)前で行われた。来賓一同を乗せた舟は、木津用水、新木津用水をくだり庄内川へ。ここを横断して庄内用水の元杁から庄内用水(黒川)へ入り、一番の難所といわれる矢田川の(水路トンネル)を経て辻町に出る。南西にくだりお城の北から西を経て都心の納屋橋に到着し、堀川西岸にある料亭「得月楼」(現、鳥久)で祝宴を張ったという。

「愛船株式会社」の開業の祝宴が開かれた料亭「得月楼」は、現在「かしわ料理 鳥久」として明治17年に建てられた建物のまま納屋橋で営業している。作家坪内逍遥も「得月楼」を利用していた。

「愛船株式会社」の開業の祝宴が開かれた料亭「得月楼」は、現在「かしわ料理 鳥久」として明治17年に建てられた建物のまま納屋橋で営業している。作家坪内逍遥も「得月楼」を利用していた。

これにより、木曽川をくだり桑名から熱田を通って運ばれていた美濃や木曽の物資は、犬山から直線コースで運搬でき、時間と経費の大幅な削減が可能になったのである。当時の県知事勝間田稔は祝辞のなかで「これまで七日あまりかかっていたのが、わずか四時間で到着できるようになった」と述べている。

この運送に使われたのは「べか舟」と呼ばれた底の浅い舟で、船頭が竿で舟を操り進めていた。犬山から名古屋へは流れとともにくだるので比較的楽であったが、帰りは数隻の舟をつないで一人の船頭が舟を操り、ほかの者は先頭の舟に結んだロープを岸から引いていったそうである。

人を乗船させたほか貨物も運び、主な積荷は、薪や炭、米や麦、木曽川の河原で採取された丸石、犬山で造られた天然氷などであった。薪や炭は名古屋という都市では生産できない貴重な燃料であり、主食の米や麦も同様である。木曽川の丸石は、家の基礎や石垣、川の護岸などの工事に使われた。めずらしいのは天然氷で、古老の思い出のなかで一番残っているのが、子どものころ氷を積んだ舟に橋の上から「氷を投げて」とせがんだことだという。

犬山市に残る明治二十四年の記録では「数年前から製氷事業が始まり、前年十二月から二月にかけて、五百余トンが製造でき、代価は千余円。多くは名古屋へ出荷」とある。今、氷屋で売る長方形の氷にすると、五百トンは十三万本以上になる。じつに大量の氷が犬山で製造され舟で運ばれてきたわけだ。

製氷は、吹きさらしで気温が低い木曽川河川敷で行われていた。犬山橋より上流の木曽川は川底が岩礁で、岩の窪みに渓流の水を竹の樋で引いたり、木曽川の水が入りこんでいる岩のところでは板で波よけを作ったりして凍らせた。氷の厚さが二寸(六センチ)以上になると、一尺六寸(四八センチ)角に切って、貯蔵業者に販売した。貯蔵業者は氷室と呼ぶ施設でこれを保存し、暑くなるころ名古屋へむけて出荷したのである。以前は、モンキーパークの東に「氷室」という地名もあった。

名古屋では明治二十一年一月に「愛知製氷会社」が上長者町に設立され、氷の卸小売業を始めている。ちょうど犬山で製氷事業が始まったころであり、木曽川で造られ、愛船株式会社の船で運ばれた氷の販売を行っていたものと思われる。

船賃は乗客一人七銭、米などは一俵三銭五厘だった。このころの活版植字工の日当が上級十五銭、下級十銭であったので、乗客の場合日当の半額程度の運賃である。

行き来する船のために、航路の所々に船着場が設けられ、荷物の積みおろしや船頭さんの休憩する茶屋などがあった。北清水橋のたもとにある親水広場は、かつての船着場の一つである。すぐ上流の黒川橋は主要街道「稲置街道」がとおり、ここは舟運と陸運の交点として非常に便利な場所であった。

また、金城橋の北西に川からあがる階段が残されているが、ここでは近くの建材屋さんが常滑から運ばれた土管を陸揚げしていたという。小牧市の味岡駅近くに、新木津用水に面してたつ割烹「清流亭」は、船頭さんのための茶屋が始まりだそうである。

犬山と名古屋の交通と流通を大きく改善したこの航路も、明治三十五年(一九〇二)には名古屋と犬山を結ぶ定期乗合馬車が運行されるようになり、大正元年(一九一二)には名古屋電気鉄道が犬山まで開通して徐々に利用が減り、ついに大正十三年、三十八年間続いた愛船株式会社の運航は廃止された。

地図


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