沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第2回「逍遥の愛した料亭」

逍遥の愛した料亭

美濃加茂市の太田小学校には坪内逍遥生誕地の碑と看板がある

美濃加茂市の太田小学校には坪内逍遥生誕地の碑と看板がある

坪内逍遥は、少年時代を名古屋で過ごした。 彼の生まれは、岐阜県美濃加茂市太田町である。明治二年、住み慣れた太田を離れて、逍遥の一家は名古屋に移住してきた。 逍遥と名古屋との係わりは深い。後にシエクスピアの研究家として、劇作家として、小説家として大成する逍遥の素養は名古屋時代に作られたといってもよい。

逍遥の畢生の大事業はシエクスピア劇の翻訳である。逍遥とシエクスピアとの係わりは彼が愛知英語学校に入り、米人の教師、レザームに出会った時から始まる。レザームは授業でシエクスピアの素読を行なった。 芝居の好きな母親に連れられ、何度も芝居小屋で見る歌舞伎とは異なったシエクスピアの劇を自分の手で日本に紹介したいと幼心に感じた。逍遥、十七歳の明治八年のことである。

愛知英語学校は、名古屋城の南側の地に明治三年、藩校として開校された。逍遥と共に明治開化期に近代文学をうちたてた二葉亭四迷も、この学校の卒業生である。

小説家としての彼の素養は、貸本屋の大惣から借りてきて、江戸時代の草双紙や戯作をむさぼり読んだことによって培われた。英文学者としての逍遥の素養は愛知英語学校、戯曲家としての彼の素養は、母親に連れられて見に行った芝居、小説家としての彼は、貸本屋の大惣で養われたといってよいであろう。逍遥の活動の源泉は、名古屋時代にあると言ってよい。

逍遥の思い出の地、名古屋。その心の風景として、いつも思い出すのは堀川であった。 堀川は、彼にとって郷愁の川であった。

水といっては、海こそは約一里の南に伊勢海へ続く尾張湾を控えていたが、河は堀河の名にしおふ人工のものがたった一流あるばかり。けれども名古屋としては、それがその街を貫いて流れる、最大の水であったので、そのやや河下の両岸に植え付けられて年を経た桜の老木はなかなか見事で、堀河の花見といふと、江戸の向島のそれ扱ひ、私が十一、二から十四五頃までは、折々父母と共に屋形船なぞに乗って、見に行ったのを思い出す。また沙魚釣りが父の年中行事の一つであったので、年に少なくとも二度以上、同じくその河を、――家族一同が暗いうちから家を出て、多勢の時は近親、縁者、出入りの者を合わせて、二艘仕立てで、昼夜の支度をして――船で下ったのを思い出す。……

と『私の寺子屋時代』の中に書いている。堀川は、逍遥にとって忘れるに忘れることのできない川であった。

得月楼の建物は現在も納屋橋そばに残っている

得月楼の建物は現在も納屋橋そばに残っている

逍遥は早稲田大学の演劇仲間、市島春城、岡山兼吉と「三友会」を結成し、その会を得月楼で、よく催した。その思い出を記したものに市島春城の『得月楼の追憶』という随筆がある。 春城は、初めて得月楼を訪れた印象を

連れ立って案内された酒楼が即ち得月楼で、ここに鰻の蒲焼きを下物に、杯をあげて嘆晤したのが、吾等の旅行中最も愉快に感じたことである。

と書いている。さらに、街中にあるのに、得月楼とは、どういうことかと店名の由来に興味を持った。 二階に上がり、川にもやっている船を眺める。川の上には満月が出ていた。

この夕べは、あたかも月夜で、月の光は水に映じてキラキラしてえもいわれぬ風情があるので、私は覚えず手を打って得月の二字虚しからずと初めて楼名の謎を解いた。

とその感動を記している。 得月楼は、経営者も代わり、今や鳥久と名を変えて納屋橋川畔に昔かわらぬたたずまいで商売を続けている。

現在「かしわ料理 鳥久」として明治17年に建てられた建物のまま営業している

現在「かしわ料理 鳥久」として明治17年に建てられた建物のまま営業している