沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第8回「黒川治愿遺沢之碑──御幸橋」

黒川治愿遺沢之碑──御幸橋

黒川治愿遺沢之碑

黒川治愿遺沢之碑

※この文章は2004年4月に執筆されたものです。

八田川に架かる御幸橋の傍の堤防上に黒川治愿の碑が建っている。碑には明治四十二年十二月、子息の黒川耕作の手によって記された文が刻まれている。碑文の書き出しは、

勝川字新開之地数十町荒野薄田不レ耕者年久矣。

と始まっている。勝川北部の台地は荒地で、水は流れず、長いこと耕す人もなく、荒野に草が茂るままになっていた。大正の終わりから昭和の始めにかけて味美小学校の校長であった末内太吉が、当時のこの地のことを詠んだ歌が伝わっている。

名は勝川と言ふけれど    お米は水にはかへられぬ    ひえのだんごにみの笠で   田ごと田ごとに水の番    夜昼かけてみな口に     立っても立っても水は来ん    竹やり研いで若い者     命かけての水けんか    明治十年十二月       黒川技師と言ふ人が    木曽川堤をくり抜いて    木津の水を連れて来た

名前は勝川と言うけれど水の流れはなく、米がとれないので、ひえのだんごを手にもって、水の番をする。いくら番をしていても水は流れて来ない。明治十年、黒川治愿が木曽川の水を引いて、やっとこの地にも米が取れるようになった。

御幸橋の春日井市側にある黒川治愿遺沢之碑. 橋の向こうは名古屋市

御幸橋の春日井市側にある黒川治愿遺沢之碑. 橋の向こうは名古屋市

碑文は木津用水が引かれた後の状況を

卒先勉二播殖一今一望悉穰田也。

と記している。  黒川治愿が新木津用水の改修をしてから、開墾地は水田に変わり、この地に多くの人々が移り住んで来て、豊かに米の穂の実る農村となった。

若微二先君一何有二今日一乎。仰二遺恩一之情誰禁。

碑文は続いて、もし黒川治愿がいなかったならば、勝川新田の今はない。黒川治愿の恩恵をいつも深く感じていると述べている。

御幸橋の上を何台もの車が通り過ぎてゆく。しかし、この黒川治愿の碑文に目を留める人はいない。

黒川治愿は弘化四年(一八四七)四月十五日、川瀬文博の二男として岐阜県稲葉郡佐波村(現在の羽島郡柳津町)で生まれた。幼名を鎌之助と呼ぶ。明治元年、二十二歳で志を立てて京都に上った。翌年、仙洞御所の御用人、黒川敬弘の養嗣子となった。

明治五年、香川県の役人となって赴任した。明治八年、二十九歳の時に愛知県に転任した。愛知県の治水、土木事業に精魂を傾け、明治二十年、病気のため辞職をした。明治三十年、五十一歳で亡くなったが、彼の名前は、川の名前として、町の名前として今も残っている。

明治十三年六月三十日、明治天皇は中山道から、愛知、三重両県を経て、京都まで巡幸なさった。八田川に架かる御幸橋は、その時に架けられたものである。勝川の南から庄内川の堤防までの下街道は低地で、よく浸水をした。

天皇の巡幸にあたり、勝川から八田川を渡り、庄内川の堤防に出て、稲置街道に至る新しい道を造ることになった。道路延長約七一三メートル、幅四・一六メートル、人夫三二五〇人、賃金六三〇円四〇銭という工事であった。御幸橋は幅三・六メートル、長さ二二メートルであった。新しく造られた道は、御幸道路、橋は御幸橋と名づけられた。

御幸橋を挟んで右側が名古屋市、左側が春日井市

御幸橋を挟んで右側が名古屋市、左側が春日井市

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