沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第7回「画の如し八田川──十五丁橋」

画の如し八田川──十五丁橋

十五丁橋と八田川

十五丁橋と八田川

※この文章は2004年4月に執筆されたものです。

木津用水は朝宮公園で八田川と合流し、庄内川に注いでいる。今は細い水の流れだが、かつては、この川に犬山から名古屋まで船が通じていた。

鈴木寿三郎は味鋺原八景のなかで、「八田川曳船」という題で五言絶句を詠んでいる。

一水通蘇水  前船連二後船一  往ハ流又還曳ク  如レ画八田川

明治十九年、木津用水の改修が完成し、木曽川からの船が名古屋に通じることになった。 漢詩に詠まれたように、犬山から水の流れにまかせて、五、六そうの船が川を下っていった。名古屋からの上りは、船をつないで船頭が両岸から綱を曳いて犬山まで帰っていった。船が運航したのは、農業用水の不要な九月二十日過ぎから翌年の六月十日までで、夏の間は灌漑用水として利用された。

犬山からは、材木、薪炭、丸石、天然氷などが名古屋に運ばれた。明治二十三年九月から二十四年九月までの一年間に、名古屋に運ばれた品物や乗客の記録が残っている。

乗客は五千人で、一人運賃七銭。丸石は三〇万個 一個七厘五毛、薪炭五、七五〇俵 一俵一銭九厘二毛 米麦、肥料 三万五千俵 一俵三銭五厘 米 六〇万貫 百貫一六銭七厘 材木 尺〆二万五千本 一本七厘五毛

明治44年頃矢田川伏越. 伏越内を船が通り犬山と名古屋の間を船が行き来していた

明治44年頃矢田川伏越. 伏越内を船が通り犬山と名古屋の間を船が行き来していた

これらの品物を運ぶ船は、水量の少ないところでは、立切で水を止め、水が溜まると堰を切って、一気に下っていった。矢田川では、川の下を伏せ越し(トンネル)で黒川に入った。トンネルの暗闇の中を船頭は、丸い輪につかまり、船を進めた。

船を運航した愛船株式会社は大正十三年に使命を終えたが、船は昭和十年ごろまで運航していたという。八田川に十五丁橋という橋が架かっている。用水工事の丁場(受持区域)が橋の下手にあったところから付けられた名前だ。

この十五丁橋は、下街道の勝川から小牧に通じる街道に架かる橋で、多くの人々が通行した。この橋の手前に、明治時代の末期に建立された道標が立っていたが、今は味美小学校に移っている。道標の南面には「大草 内津 清水 名古屋道」、西面には「勝川 大曽根 小牧 犬山道」、東面には「施主 尾崎彦雄」と刻まれている。

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