古墳の中の社──白山神社
白山神社は古墳の中に鎮座している。白山神社古墳の近くには二子山古墳、お旅所古墳、春日山古墳などがあり、いずれの古墳も、この地を支配していた豪族の墓と推定されている。
白山神社は、もともとは味鋺村の白山薮古墳にあったが、万治二年(一六五九)に現在の地に遷座された。なぜ、白山薮古墳より二子山古墳に遷座されたかは不明である。遷座した白山神社は、二子山古墳に祀られていた物部神社と合祀された。二子山は古代の大豪族の物部氏との関連がある古墳かも知れない。
味鋺地方を大和朝廷の時代、支配していたと推定される物部氏は饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫と称し、天皇の親衛軍を率いて、大伴氏とともに強い勢力を持っていた。物部氏は、六世紀の半ば仏教を受容することに反対し、仏教を受け入れようとする蘇我馬子の軍と戦って敗れてしまった。物部守屋の時代である。森閑とたたずむ白山神社古墳は、物部氏と味鋺地方との関係を何も語らず歴史の流れを見つめてきた。
全国に数多くある白山神社は、加賀の国の霊峯白山より祭神をむかえたものである。
白山は、養老元年(七一七)修験者の泰澄によって開かれた山だ。かつては白山講をつくり、部落から先達に導かれて山に登る人が多かった。 二子町の白山神社は伊邪那岐命、伊邪那美命、可美真手(うましまで)命、菊理(くくり)比売命、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀る。
白山神社の西南にお旅所がある。毎年十月十日の大祭には、神社からお旅所までの渡御がある。渡御が行なわれるようになったのは宝暦六年(一七五六)からだ。当初は春日山まで渡御していたが、行列があまりにも長く続き、本街道(稲置街道)の通行の妨げになるという理由で、現在の相宮までの渡御に変わった。
『春日井の神社』は、白山神社のお旅所祭りについて、次のように記している。
この祭りの意義は、氏神信仰の古い形をそのまま受け継いでいるところにある。即ち、社殿を設けなかったころの大昔の人々は、氏神は幟を目印に山や森へ降りてこられるものと信じていた。そして、迎えた神を自分たちの面前に設けた祭場に祀っていた。
やがて社殿が造られ、神様がそこに常住されるようになると、そこから御輿に乗って一段低いところに設けられた祭場へ神幸されるようになった。氏子たちは、そこに神を迎えて、祭りを行なうようになっていった。これが「おたび」である。氏子の面前に神を迎えて、神と人とがひとつになるところに、氏神信仰の意義があった。
地図
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