沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第16講 上飯田界隈 第1回「川の立体交差──矢田川伏越」

川の立体交差──矢田川伏越

明治44年頃の矢田川伏越前の天然プール。写真奥の2つの穴が伏越の入口

明治44年頃の矢田川伏越前の天然プール。写真奥の2つの穴が伏越の入口

※この文章は2004年2月に執筆されたものです。

「川が立体交差している」と聞くと、ほとんどの人はびっくりする。道路の立体交差は、あちらこちらで見て知っているが、川のそれは見る機会が少ない。しかし、ずっと昔、名古屋では江戸時代初期から造られており、こちらのほうが本家本元だ。川が地下にもぐって立体交差するのを伏越という。

矢田川にかかる三階橋のすぐ上流にもある。庄内用水の「矢田川伏越」がそれだ。ここにはじめて伏越が造られたのは、延宝四年(一六七六)。庄内川から取水した御用水を矢田川の下をくぐって名古屋城のお堀まで流すためである。

庄内川と堀川取水口(写真左側)

庄内川と堀川取水口(写真左側)

御用水は寛文三年(一六六三)に開削され、最初は庄内川の水を矢田川に流し込み、対岸の山田村(東区)で、庄内川からの水と矢田川の水を合わせて取り入れていた。矢田川は上流に瀬戸の陶土地帯があるので流砂が多く、用水にも砂が流れ込み水路の浚渫も行ったが維持管理が難しい。このため、庄内川の水だけを流せるように御用水路を大幅に付け替えて、辻村(北区)で矢田川の川底をくぐりお堀まで流した。矢田川の下をくぐる伏越は、長さ九七間(一七六・五メートル)幅九尺(二・七メートル)高さ三尺(〇・九メートル)で、高さは低いが幅・延長とも大きなものであった。十七年後の延宝八年(一六八〇)には、さらに今の守山区側が延長されている。伏越は木製なので、その後も腐朽するごとになんども造り替えられた。

元杁樋門から矢田川方面に流れる

元杁樋門から矢田川方面に流れる

この伏越が大きく姿を変えたのは、明治十年(一八七七)の黒川開削の時である。御用水や庄内用水などの水量を確保するとともに、犬山と名古屋を結ぶ航路を造るのを目的に黒川は開削された。それには矢田川伏越も舟が通れる構造にする必要がある。

この時に造られた伏越の規模や構造の記録はないが、明治二十四年(一八九一)の濃尾地震による破損で改築したあとの記録が残っている。二本の伏越があり、上流側の東杁は江戸時代の御用水のものとほぼ同規模であるが、下流側の西杁は舟が通れるように幅が十二尺六寸(三・八メートル)、高さ十尺三寸五分(三・一メートル)と非常に大きな断面になっている。黒川開削当時の伏越もこのようなものと思われる。壁には鎖がつけられていて、船頭さんはこれをたぐりながら伏越の中を進んでいった。矢田川の下は、水だけでなく舟も通っていたのである。

名古屋上下水道局守西ポンプ場の下を通って矢田川の下を流れていく

名古屋上下水道局守西ポンプ場の下を通って矢田川の下を流れていく

明治四十四年(一九一一)には当時の新技術「人造石」で改築されている。「人造石」とは、日本の伝統的な「たたき」工法を、今の碧南市出身の服部長七が改良した技術で、石のように硬いことから「人造石」と名づけられた。まさ土と呼ぶ風化した花崗岩の細粒と石灰を混ぜ、水を加えて棒や板で叩き締めて固める。今のモルタルのように積み石の目地に入れたり、コンクリートのように人造石自体を固めて構造物を造ることもできた。矢田川伏越は人造石を固めて造られた。明治十年(一八七七)ころから普及し始めて全国各地で採用された。宇部港(山口県宇部市)や神野新田(愛知県豊橋市)の海岸堤防など大規模な土木構造物も造られたが、施工に手間がかかるので鉄筋コンクリートの普及とともにすたれていった。

矢田川伏越工事 提供:名古屋市北区役所

矢田川伏越工事 提供:名古屋市北区役所

「人造石」の伏越は、矢田川の川底の低下により頂上部が一・四メートルも川の中に露出するようになったので、昭和三十年(一九五五)に取り壊され鉄筋コンクリートで改築され、さらに昭和五十三年(一九七八)に三階橋ポンプ所を建設するにあたって改築され、今は舟が通れない構造になっている。

伏越はなんども造り替えられた。木・人造石・鉄筋コンクリートというように、その時代の技術により、また舟運の有無などその時代背景により構造や姿は変わってきた。しかし、最初の伏越がここに造られた三百年以上昔と同じように、今日も庄内川からの水を流し続けている。さらに三百年後にはどんな姿でいるのだろうか。

矢田川の川の下を水が流れる

矢田川の川の下を水が流れる

地図


より大きな地図で 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」 ‎ を表示