三重県の歴史街道 大和街道の概要
大和街道・伊賀街道が通る伊賀国は、伊勢・近江・山城・大和の国々に囲まれた 山国で、上野盆地に入るためには、どの道を通っても険しい山を越えなけ ればならなかったと同時に、伊賀国を通らなければ相互の連絡に不自由するという 交通の要衝であった。
大和街道は、江戸時代には加太越奈良道と呼ばれ、関の西の追分で東海道から分岐し、 加太峠を越え三重県をぬけて奈良へと続く街道である。この道の歴史は古く、 大海人皇子が壬申の乱の折に、あるいは、源義経が木曽義仲を討つ折に通った加太峠越道 が、この街道の原型とされる。
この、歴史の英雄たちが駆け抜けた道は、現在はほとんどが農道となり、一部は拡張されて国道 25号や国道163号になっている。
慶長13年(1608) 、徳川家康の信任も厚い藤堂高虎は、伊勢、伊賀の藩主に移封されると、 国の防衛のため伊賀の道は険しいままにしておくようにと命じ、伊賀国への入口 とも言うべき「伊賀の七口」に兵を置いて領国を守るという政策を取った。 これは、高虎がこの地へ移封されたのが、大坂方への前進基地の意味を持つためと思われる。 同様に高虎は津を平時の時の城、伊賀を「秘蔵の国」すなわち万一の時の本城と考えて いたのである。
この街道は大和地方諸国の大名が参勤交代の折に利用する道であり、伊賀国と山城国を 結ぶと同時に木津川の水運につながり、淀川を経て、下流の京都・大坂という二大都市、 そして外洋へと続く重要なルートでもあった。
伊賀地方は大和地方に隣接し、東大寺などの影響も強かった。また、さらに古代に遡って みると、この地方は古墳の密集地帯でもあり、遙か古代から畿内の進んだ文化が 流れこんでいたことがうかがえる。
おそらく木津川という長大な流れが、人や文化を。運ぶ天然の道となってきたのだろう。
そして、大和街道はその歴史の流れを受け継いだ。街道であると言えるのかもしれない。
上野から佐那具(伊賀市)
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西柘植・下柘植・中柘植(伊賀市)
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上柘植(伊賀市)
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一ツ家(亀山市と伊賀市)
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