三重県の歴史街道 伊賀街道の概要
伊賀街道・大和街道が通る伊賀国は、伊勢・近江・山城・大和の国々に囲まれた山国で、 上野盆地に入るためには、どの道を通っても険しい山を越えなければならなかったと同時に、 伊賀国を通らなければ相互の連絡に不自由するという交通の要衝であった。
伊勢国と伊賀国にまたがる伊賀街道は、津から橡ノ木峠とも呼ばれた長野峠を越えて上野に 至る全長約12里(約50キロメートル)の街道で、現在の松阪市中林町(旧三雲町)の月本の 追分を起点とする奈良街道(古くは「伊賀越奈良道」)と重なる部分が多い。道は現在の国道 163号に沿う形で通っており、今でも国道沿いのあちこちに、かつての街道の面影が残っている。
津城下を出発し、長野峠、上野、島ヶ原と抜けるこの街道は、東海道のような主要幹線道ではなく、 京都、大和、山城方面と伊勢神宮を結ぶ参宮の道としての性格を備えた地方路のひとつに過ぎなかった が、慶長13年(1608)に藤堂高虎が伊勢・伊賀二国の大名として移封され、津を本城に、 伊賀上野を支城したため、津を起点に藩のふたつの拠点を結ぶ津藩内の最も重要な官道として 整備された。が現在の伊賀街道である。
街道には伊勢国側に前田宿(後の片田宿) 、長野宿、伊賀国側に上阿波宿(後に平松宿) 、 平田宿があり、宿には公亭とも御茶屋とも呼ばれる藩主の休泊所が設置され、伊賀街道の官道 としての性格を物語る。宿場の西に設けられた火除土手(ひよけどて)は、津藩の街道の特徴で、 かつてはどの宿場にもあったと思われるが、現在は北長野のものが現存するのみである。
また、この街道は、上野経由で伊勢に向かう参宮の旅人が利用したりしたが、参宮道や官道 としてだけでなく、津方面からは水産物や塩が、伊賀方面からは種油や綿などが津へと運ばれ、 その一部は江戸まで船で運ばれるなど、伊賀・伊勢両国の物資や人が行き交う経済・生活の 大動脈としての役割も担っていた。このため、街道沿いは宿場を中心に賑ったという。 多くの文人墨客や俳聖・松尾芭蕉も長野峠越の道を利用し、街道筋にはいくつもの句碑が建て られている。
上阿波・平松宿
より大きな地図で 伊賀街道 を表示
伊賀市上阿波宿(平松)へ
より大きな地図で 伊賀街道 を表示
上阿波宿(平松宿)
より大きな地図で 伊賀街道 を表示
平田宿へ
より大きな地図で 伊賀街道 を表示
平田宿
より大きな地図で 伊賀街道 を表示
中之瀬
より大きな地図で 伊賀街道 を表示
上野
より大きな地図で 伊賀街道 を表示