御園座開場す
雑誌『歌舞伎』明治三十九年十二月号に「元来名古屋は芸道に身を入れる風習あり、旅興行の俳優なども、この地を煙ったがることは、つとに世人の知るところ、されば田舎にしては恐ろしきほどの見巧者あり、いわゆる寸鉄人を殺す大向うの半畳なれど、往々にして歴々の劇評家先生にも言い得べからざる味わいのあるところなり」という記事が載っている。
芸どころ名古屋には、当時十四の小屋があった。広小路界隈には、千歳座、音羽座、新守座、中座の四つの小屋があった。千歳座は、明治十八年、大須の真本座が南桑名町に新築移転し、名を変えて開場した小屋だ。新守座は、明治六年に総瓦ぶきの新様式の劇場として、本重町に開場した。後に、千歳座は、千歳劇場、新守座は、中京劇場となり、映画館に変る。
音羽座は橘町の寛文年間よりの古い芝居小屋、橘座が明治二十五年南園町に新築移転した小屋だ。中座は広小路の北にある寄席であった。これらの小屋は現在姿を消してしまっている。当時から現代に至るまで一流の劇場として、名古屋演劇界の中心をなしているのは御園座である。
御園座の初代社長、長谷川太兵衛は、明治二十八年、名古屋に一流の劇場を造り、自分の好きなものをかけて、皆と一緒に楽しみたいと決心し、東京、大阪、京都などの劇場を見学して歩いた。数多くある劇場の中で自分の理想とする小屋は、東京の明治座であると思った。明治座を手本として、御園座と名づけられた劇場が完成したのは、明治三十四年の四月であった。
『御園座百年史』は開場当時の様子を、次のように記している。
外観は、左右に大きなドームのあるルネッサンス式洋風建築で、正面入口の上には『抱蜻蛉』の座紋が掲げられた。場内は高い天井に大きなシャンデリアがつるされ、客席はすべて桟敷。一階の花道と仮花道の両側が四人詰め、平場が二人詰め、二階に六人詰めの枡席があり、後方に、大入場(自由席)と一幕見があった。枡席の定員は、一階九百六十四人、二階二百五十二人で合計千二百十六人。舞台は間口十間半(十九メートル)、奥行九間(十六・三メートル)。手動式の大小二つの蛇の目回しの回り舞台があった。
堂々たる劇場が、広小路に姿を現した時、人々は驚異の目をみはった。 柿葺興行は五月十七日から二十七日まで行なわれた。出演者は初代市川左団次を筆頭に市川権十郎、坂東八十助(後の七代目三津五郎)などで、演目は「浜真砂蒔絵高島」「鎌倉山鶴朝比奈」「有情恵景清」「御園開花賑」である。朝八時から夜十時までの長時間興行だった。入場料は木戸が一人十三銭、桟敷は二人詰め二円十銭、四人詰め四円二十銭、大入場一人につき三十五銭と二十五銭、一幕見は一人につき五銭から三銭であった。木戸から入った客は、菓子・弁当・すしの三品セットを三十銭で買い、上等の客は芝居茶屋で食事をとる仕組みになっていた。