東海道 吉田宿 - Network2010

東海道

吉田宿

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頻繁に変わる城主

明治6年(1873年)消失前の吉田城明治6年(1873年)消失前の吉田城吉田は鎌倉時代から、東海道の前身である鎌倉街道沿いの重要な町の1つでした。戦国時代末期には東三河の戦略拠点の1つとして今橋城(のちの吉田城)が築かれ、以後城下町として発展しました。

戦国時代、徳川家康は今川義元の配下に置かれていました。しかし桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、今橋城を攻略し、配下の酒井忠次を城主にしました。

吉田城跡の石碑吉田城跡の石碑1954年(昭和29年)に模擬再建された隅櫓1954年(昭和29年)に模擬再建された隅櫓その後、豊臣秀吉によって徳川家康は関東に移封されたため、代わって池田輝政が15万石の城主として統治することになりました。
輝政は今橋城の名称を吉田城に変え、吉田城および城下町の大改築や吉田大橋(豊橋)の架け替えを行ったものの、完了を見届けることなく関ヶ原の戦いの後、徳川家康により播磨姫路に移封されました。以後城主は頻繁に入れ替わり、最終的には長沢松平大河内家が幕末まで統治しました。

吉田宿

吉田宿周辺地図(黄線が東海道)吉田宿周辺地図(黄線が東海道)吉田宿 宿場図吉田宿 宿場図東惣門東惣門江戸時代、吉田宿の町並は2約2.6kmの長さがありました。本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠は65軒。人口は5,000人ほどでした。吉田宿には、東西二箇所に惣門があり、東惣門は宿の東の入口にあり午前六時から午後10時まで開けられ、それ以外は閉門されていました。付近には番所などが置かれ警備にあたっていました。

豊橋神明社豊橋神明社豊橋神明社 解説豊橋神明社 解説東惣門を過ぎると曲尺手(かねんで)町の名のように曲がり角が多くなります。江戸時代、曲尺手町の東海道から北約400mに豊川を背にした吉田城がありました。しかし富国強兵のもと、明治政府により取り壊され旧日本陸軍歩兵第18連隊が置かれ、現在は公園となっています。公園の入口付近にある神明社は天下の奇祭「鬼祭り(国指定重要無形民俗文化財)」で知らています。

吉田神社吉田神社「三河伝統手筒花火発祥の地」の碑「三河伝統手筒花火発祥の地」の碑(吉田神社境内)また吉田城の西約300mの豊川沿岸に位置する吉田神社は、三河伝統手筒花火発祥の地として知られ毎年7月の祇園祭では手筒花火約300本、豊川河畔での打ち上げ花火約12,000本が奉納されます。

本陣・脇本陣跡

問屋場跡問屋場跡吉田宿 本陣跡吉田宿 本陣跡本陣跡 解説本陣跡 解説東海道に戻り、曲尺手町をすぎると呉服町、札木町にはいります。道の両脇には、順に問屋場跡、本陣跡、脇本陣跡の碑が建っています。菊宗はこの道の南側にあり、創業文政年間、江戸時代より約200年の老舗で、豊橋の郷土料理 菜めし田楽で有名です。菊宗を西に約250m進み交差点を上伝馬町方面に右側に曲がり、さらに約230m国道23号線を超えた右側に西惣門がありました。吉田宿の西のはずれです。現在、こじんまりした西惣門のレプリカが建っています。
西惣門(レプリカ)西惣門(レプリカ)菜めし田楽 菊宗菜めし田楽 菊宗吉田宿 脇本陣跡吉田宿 脇本陣跡西惣門をでて約60m行き右に坂をのぼると賢養院があり、東背後には豊橋市役所が見えます。賢養院の境内には豊橋 の俳人 木朶の墓があります。

豊川と豊橋

豊川豊川旧吉田大橋(旧豊橋)跡の碑旧吉田大橋(旧豊橋)跡の碑ここから約130m進むと豊川に当たり、左に川沿いを進むと現在の豊橋の豊川下流70mに、旧吉田大橋(旧豊橋)の跡の碑が現れます。鎌倉時代に豊川に架けられた橋で、当時は今橋と呼ばれ、江戸時代になって吉田橋と改名、明治時代になると豊橋と改称され、昭和に入って豊川上流70mのところに移されました。

動画

http://www.youtube.com/v/GgS9WQ7tW2w
東海道 吉田宿
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