東海道 四日市宿 - Network2010

東海道

四日市宿

※上の地図画像をクリックするとGoogleMapが浮き出して表示されます。(閉じるには地図背面の濃いグレーの部分をクリックするか、地図右下の×マークをクリックして下さい。)

四日市市へ

長明寺山門長明寺山門御厨神社参道御厨神社参道朝日町から朝明川を渡ると四日市市に入ります。右手に御厨神社をみながら、関西線と並行する東海道をどんどん南下すると、右手に宝性寺、長明寺が現れてきます。長明寺は、真言宗の寺院で寺の廻りは堀で囲まれています。

富田の一里塚跡

富田の一里塚跡の碑富田の一里塚跡の碑八幡神社八幡神社三岐鉄道と関西線の交差を越え、西富田町に向かって進みます。西富田町の中心からそれて左手に曲がり、関西線と並行に、三岐鉄道、近鉄名古屋線のガードをすぎると富田の一里塚跡の碑が右手に見えてきます。富田の町に入るとすぐに八幡神社が道沿いにあります。昔は、東海道五十三次富田立場の西端が八幡の森で、昼でも暗く鬱蒼と樹木が繁っていたと伝えられています。境内には力石も残されています。

富田~茂福

善教寺善教寺東海道はクリーニング店に沿って曲がる東海道はクリーニング店に沿って曲がる蓮光寺跡の公園を右手に進み、突き当たりの一本手前の交差点(クリーニング屋さんの前の交差点)を右手の曲がり、富田の中心部へと入っていきます。進行方向右手には市立富田小学校、左手側には長興寺や善教寺などがあります。
茂福神社茂福神社T字路にある力石T字路にある力石十四川を渡り薬師寺を右手に見ながら進むと、茂福町に入っていきます。道なりに直進すると常照寺付近でT字路に突き当たります。そのT字路には力石が置かれています。
T字路を左手に曲がり證園寺前を過ぎ再び右手に曲がります。しばらく直進すると、右手に茂福神社の参道が現れます。300m程奥まった所に茂福神社が鎮座しています。

羽津城跡

東海道は北に近鉄名古屋線、南に国道1号線の間に挟まれた形で羽津町まで平行に走っています。近鉄名古屋線の霞ヶ浦駅と阿倉川駅の間に城山公園があります。この公園にはかつて田原盛宗によって築かれた羽津城がありました。現在、羽津城跡の石碑が公園内にありますが、園内を分断するように近鉄線が走っているため、かつて城郭の面影はかすかなものとなっています。

三ツ谷の一里塚

三ツ谷の一里塚跡三ツ谷の一里塚跡多度神社多度神社金場町の手前で東海道は国道1号線へと合流します。海蔵川の手前、多度神社で国道1号線から分かれ三ツ谷の一里塚跡へと向かいます。海蔵川には、かつて橋が架かっていましたた。海蔵川を渡り四日市の市街へと入っていきます。


笹井屋本舗

笹井屋本舗笹井屋本舗法泉寺法泉寺法泉寺を右手に過ぎ、三滝川に向かって直進します。三滝川を越えてすぐ道沿いに「永餅」で有名な笹井屋本舗が左手に見えてきます。
天文19年(1550年)に笹井屋彦兵衛によって創業された笹井屋は、日永の里で餡入りの餅を焼いて売り始めたのが始まりとされています。土地の名にちなんでこの餅の名を「永餅」としたといわれています。また、津の藩主、藤堂高虎にも好まれたと伝えられています。
笹井屋すぐそばにある市立中部西小学校のあたりは、かって四日市代官所があったところです。

諏訪神社

道標右側を進んで国道1号線に合流する写真中央にある道標の右側を進んで国道1号線に合流する国道1号線から諏訪神社前に入る入り口国道1号線から諏訪神社前に入る入り口しばらく進み、東海道と交差する国道164号を超えると、道はゆるやかに右に曲がり、角には道標が見えてきます。このあたりは、戦国時代には南市場と称して市場町として栄え、江戸時代に入ると東海道の宿場町として栄えました。
道標をすぎ、クランク状に国道1号線上を進みます。国道1号線 諏訪町北の信号で東海道は右手に折れて諏訪神社前を通っていきます。
諏訪神社の前を通って商店街へと入っていく諏訪神社の前を通って商店街へと入っていく諏訪神社諏訪神社諏訪神社は、四日市を守護する神社として「おすわさん」の名で市民に親しまれています。 毎年10月は伝統ある四日市祭が行われています。

浜田城跡

東海道から伸びる鵜森神社の参道東海道から伸びる鵜森神社の参道鵜森神社から東海道側の参道をのぞむ鵜森神社から東海道側の参道をのぞむここから東海道は、諏訪栄町の商店街の中を通ります。近鉄四日市駅前の中央通を超えて、浜田町まで来ると右手に鵜森神社の参道と交差します。東海道から400mほど奥まった所に鵜森神社はあります。
浜田城址の碑浜田城址の碑神社の横は、文明2年(1470年)に築城されたとされる浜田城がありました。現在は、鵜森公園として市民の憩いの場となっています。

日永

東海道と大宮神明社参道鳥居東海道と大宮神明社参道鳥居両聖寺両聖寺浜田町を過ぎ、ひたすら日永へと進みます。大宮神明社は日永の入口に位置します。
六月三十日には「輪くぐり」といって茅の輪をくぐると夏負けしないという言い伝えがあり、多くの人でにぎわいます。
日永神社日永神社日永の中心部に入り、大聖院、興正寺を右手にみて両聖寺まで進みます。両聖寺では、毎年お盆には寺の境内で市の無形文化財の「つんつく踊り」が披露さます。
南日永に入り日永神社、西唱寺をすぎ、泊町へと入っていきます。

日永の追分

日永の追分. 右:東海道, 左:伊勢街道日永の追分. 右:東海道, 左:伊勢街道泊町を過ぎると、東海道と伊勢街道の分れ道「日永の追分」が現れてきます。道路が拡張される前は伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていました。
この鳥居は安永三年(1774)久居出身で江戸にいた渡辺六兵衛と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたものです。
鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて、二十年ごとに建て替えられることとなっていました。今の鳥居は昭和五十年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて九番目に立て替えられた鳥居となっています。
追分には鳥居と石碑がある追分には鳥居と石碑がある日永の追分の解説日永の追分の解説「日永の追分」は、四日市宿と石薬師宿との間にあって「間の宿」と呼ばれ、旅籠が軒を並べ、茶店も多くあったといわれています。

采女町へ

願誓寺願誓寺小古曽(おごそ)神社小古曽(おごそ)神社日永の追分を右に分かれ、国道407号線を進みます。近鉄追分駅そばで407号線から分かれ左に進んでいきます。道なりに進んでいくと、右手に小古曽(おごそ)神社の参道が現れます。参道を越えて2つめの交差点を右に曲がり、願誓寺の前で左に曲がります。そのまま道なりに進み再び国道407号線と交差(小古曽3丁目交差点)し、道なりに直進します。
成満寺成満寺内部川を渡り国道1号線をまたぐと采女町へと入っていきます。成満寺参道をすぎ、うつべ町角かど博物館を越えるすぐと左手に曲がり、国道1号とぶつかる1本手前を左に曲がります。このようにクランク状に東海道を進むと杖衝坂の入口に出ます。

杖衝坂

杖衝坂. 奥に芭蕉句碑や井戸が見える杖衝坂. 奥に芭蕉句碑や井戸が見える杖衝坂の入り口にある金毘羅堂杖衝坂の入り口にある金毘羅堂坂の入り口には金毘羅堂が建っています。
この坂は東海道の中でも急坂として有名で「杖突坂」ともいわれています。
日本武尊が東征の帰途、大変疲れ「其地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつかして、梢に歩みましき、故其地を杖衝坂といふ」(『古事記』)とあり、その名が称されるようになっとされています。
右に杖衝坂の碑, 左奥に芭蕉句碑と井戸がある右に杖衝坂の碑, 左奥に芭蕉句碑と井戸がある右に杖衝坂の碑, 左奥に芭蕉句碑と井戸がある右に杖衝坂の碑, 左奥に芭蕉句碑と井戸がある松尾芭蕉も江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかりましたが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したと言われ、「歩行ならば杖つき坂を落馬かな」と俳句を詠みました。また、杖衝坂には「弘法の井戸」、「大日の井戸」の二つの井戸が残されています。
血塚社血塚社杖衝坂を登ったところに、日本武尊御血塚社という小社があります。東国征伐の帰途、伊吹山の神と戦い傷ついた日本武尊(やまとたけるのみこと)が、険しい杖衝坂を登り、足が破れて出た血を洗浄したところといわれています。
坂を下り、再び国道1号線と合流した右手に釆女一里塚跡が見えます。さらに進むと豊臣神社の赤い鳥居が左手に見えてきます。もとは、杖衝坂の上にあったので「杖突稲荷大明神」とも呼ばれていました。
しばらく進み四日市市から、鈴鹿市へと入り石薬師宿へと向かいます。

動画