大画面でご覧になりたい方はYouTube Network2010で
INDEXへ
- シリーズ「変貌する名古屋城」Menu
- ①よみがえる名古屋城本丸御殿
- ②本丸御殿整備担当に聞く
- ③本丸御殿木工事
- ④伝統技術の継承-左官工事
- ⑤金具の製作と取り付け
- ⑥名古屋城の石垣
- ⑦二之丸庭園整備
- ⑧ボランティアガイド
✰他のシリーズもご覧ください✰
インタビューの要約
石垣の積み方と産地
石垣にも何種類かの積みかたがあります。城郭で最初に使われている石垣は野面(のずら)積という自然石をそのまま使ったような積みかたをしています。その後、戦国時代から江戸時代にかけて打込接(うちこみはぎ)とか切込接(きりこみはぎ)など石を割る技術が発達してきます。また、石の積み方としては、石の横の列が通るものを布積、列が通らないものを乱積と呼びます。名古屋城では、基本的には切込接の乱積という石垣が多く見られます。しかし、後の時代に積み直しなどもあり、布積の石垣も見られたりします。 だいたい名古屋城の石垣の石の重量は、平均的なもので700キロから800キロです。石材は、小牧市の岩崎山、三重県の尾鷲、岐阜県の海津市の養老山系あとは三河湾沿岸で採ったと考えられています。
名古屋城の石垣
西日本を中心とした20の大名が石垣建築にかかわっています。加藤清正が天守台を造ったことは有名ですが、各大名が各石垣を細かく分担して築きあげました。石垣の角は、直方体状の石が交互に積まれているのがご覧いただけますが、これを算木積といいます。角を安定させるためには、非常に有効な積み方であると考えられおり、この手法を採りいれています。
大体5割から8割くらいの石には刻印が入っていると考えています。この刻印ですが、20の大名が係わって 石垣を建築していますので、大名が工事中の所有権などのトラブルを回避するため入れたのではないか と考えられています。墨書(ぼくしょ)は墨で石垣の石に書かれた印です。現在修復工事を行っている現場では多く見つかっています。この場所は、一度積み直しを行っており、その時に石の位置や寸法などを書いていることが多く見られます。
基本的に石垣は積んであるだけです。ただ角度を調整するするためや、石の座りを良くするために敷金(しきがね) という金属製のものを石と石の間に入れています。石の成形は、石の表面に蚤(のみ)で穴を掘り、矢といわれる金属製の楔(くさび)を差し込んで上から叩くと割れます。
本丸搦手馬出の石垣修復
現在、本丸搦手馬出(からめてうまだし)という場所で、石垣の修復工事を行っています。だいたい立面積で 1200平米、石の数で4000個くらいの全国でも最大規模の石垣修理を行っています。今回の現場に関しては、どうも江戸時代にも一度、積み直しがされていたようで、もともと乱積だった石垣が布積に変えられて いままで残されていたようです。石垣に歪みなどが出て、崩れる恐れがあるので修復工事を行っています。石垣の内部の盛土のところに水みちという水が良く流れる層ができ、背面の土で弱いところと強いところ ができて、バランスが崩れその歪みが石垣の面に現れてきていると考えています。