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慶安4年(1651),第二代目尾張藩主徳川 光友が、父の藩祖義直の菩提を弔うために建立し、以後、尾張藩主の菩提寺となっています。 徳川家霊廟(御霊屋)は県指定有形文化財、総門、 三門、鐘楼、御成門・本堂・経堂・開山堂 ・源正公廟は市指定有形文化財、徳興殿は 国登録有形文化財となっています。今回は建中寺 村上真瑞住職に、建中寺の歩みをお聞きしました。
-インタビューの内容を要約して記事にしています-
尾張藩祖 徳川義直と定光寺
定光寺(瀬戸市)の裏山に、国宝の徳川義直公のお墓と殉死した方の墓がありますが、定光寺自体は、臨済宗のお寺で浄土宗ではないので、徳川家の宗派ではありませんが藩祖義直公は、とても鷹狩りが好きで、とくに定光寺の裏山が好きなので墓を作ることを遺言しました。宗派は違いますが、定光寺の裏山に徳川義直公の墓があります。
尾張徳川家の菩提寺 建中寺
お葬式をあげられたのは、山口町(名古屋市東区)の相応寺で義直公の母(相応院-お亀の方)の菩提寺です。しかし、尾張徳川家の 菩提寺とすることは出来ないので、二代の光友公が没後1年後の、慶安4年(1651)に建中寺を創建しました。それ以降、名古屋城主は建中寺に葬られ、お位牌も御霊屋に納められて毎日、御回向が行われています。
建中寺の敷地
現在の建中寺の境内は、だいたい伽藍のあったところだけが残っていますが。創建当時、南は建中寺公園の南にある総門、東が車道に沿った線で、東海高校・中学まで行きます、西は東警察署からあずま中学の北西角までで、あずま中学校の西側と北側に石垣がそのまま残っています。現在、建中寺の境内の敷地面積はおおよそ1万坪、創建当時は5万坪、現在の5倍の敷地を持っていました。建中寺の北側、現在のあずま中学校の東北の角に徳川宗春公のお墓がありました。歴代藩主の墓が、おおよそあずま中学の敷地になっています。
建中寺の史跡
現在残っている、慶安4年(1651)の創建当時の建物は、総門(名古屋市都市景観重要建築物等)、三門(名古屋市都市景観重要建築物等)、 本堂(名古屋市都市景観重要建築物)、鐘楼(名古屋市都市景観重要建築物)、開山堂(名古屋市指定有形文化財)、御成門(名古屋市都市景観重要建築物) の4つは、天明5年(1785)に杉村が全焼するような大火事が起こり、風でとばされた火のついた布団が、本堂の一番高いところに巻きついて 炎上し、焼失してしまいました。二年後の天明7年(1787)に再建されました。本堂の奥にある光友公(元禄13年-1700年没)の墓 (名古屋市指定有形文化財)は、類焼を免れました。
御霊屋
本堂の真後ろに、正式には霊廟(愛知県指定有形文化財)といわれますが、建中寺では御霊屋と呼んでいる建物があり、現在改修工事を行っています。権現造りといって、本殿と拝殿が別々にあり、その間に渡殿があり、東照宮建築とよく似ていますが、東照宮のように宮様式ではなく、仏教様式の権現造りで、あまり多く残っていませんので貴重な建物だと思います。
徳興殿と寺宝展
徳興殿(国登録有形文化財-旧名古屋商工会議所)で2014年10月23日に開催される寺宝展に、徳川宗春公の母君が乗っていた 御駕籠(おかご)が展示されています。また宗治公の兄で将軍の座を争った継友公の母君の乗った御駕籠も建中寺に残されており、この二つは貴重なものだと思います。
蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)は、鎌倉時代に元(蒙古)の襲来を受けたとき、日本の武士(竹崎季長)が防衛のため奮闘し撃退したものの、褒章として領地を得ることができず、不満を持った武士が蒙古襲来絵詞に自分が奮戦している様子を描いたものです。その模写が建中寺にあり、普段は徳川美術館に寄託してありますが、10月23日の寺宝展には展示します。
黄檗版の大蔵経
江戸時代に最後の宗派として日本に伝わった黄檗宗(おうばくしゅう)という宗派があります。黄檗宗の隠元禅師が民版の大蔵経を持ってこられ、その弟子の鉄眼禅師が、この原本を元に黄檗宗を普及させたいと思い、黄檗版の大蔵経をつくられました。それが全巻そろっており、建中寺の建中寺の経蔵に収められています。毎年三分の一づつ虫干しをして、本堂でお経をあげ、 最後に、貴重な大蔵経を一冊一冊、御参りされた方が手渡しで経蔵に戻します。