名古屋台地の出現(太古の名古屋)
古代、名古屋は東海湖という湖の中心に位置していました。この東海湖が隆起し、半島として名古屋台地が形成されました。その表土は瀬戸、常滑方面や滋賀県に流れ、現在の良質な陶器の原料となっています。
北は名古屋城、東は覚王山、西は堀川沿い、南は熱田神宮の範囲で象の鼻のような形で伸び、熱田神宮の沖合いは遠浅の海になっていました。
名古屋城下はこの名古屋台地の上に築かれました。
東海最大の城下町清洲
清洲城下図清洲城は応永12年(1405年)斯波義重によって築城されました。その後織田信友の居城となりましたが、弘治元年(1555年)信友は信長により殺害され、信長は清洲城を大改修して那古野城より移り約10年間居城としました。
本能寺の変で信長が倒れ、相続した次男・織田信雄も小田原攻めで秀吉に逆らい城を追われて、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦では東軍の後方拠点として利用されました。
戦後、福島正則が安芸に移ると徳川家康は四男松平忠吉を送り統治させました。忠吉は若くして夭逝し、慶長12年(1607年)後任として甲斐国(24万石)の城主であった九男徳川義直を清洲城主に任命し、尾張国(62万石)の統治行わせました。
当時の清洲城下の人口は6~7万ともいわれ東海地方最大の都市でした。慶長15年(1610)より、民族大移動ともいうべき「清洲越し」がはじまります。