木曽美林による文化・産業振興
東照宮祭礼 七間町弁慶車大量物流の輸送を海運に頼っていた江戸時代、外洋港を持たない名古屋の財政を支えていたのは、62万石といわれる年貢米収入と他の藩にはあまり例のない木曽の山林からの収入で年貢米収入を上回っていたといわれています。
今に例えれば潤沢なオイルマネーが入ってくるようなわけですから、尾張藩主は優雅に高い文化水準を維持できたわけです。
家康より、外国からの献上品である機械式時計をもとに見事仕組みを解明した日本初の時計師、津田助左衛門を尾張藩御用時計師として召抱えたり、からくり人形師玉屋庄兵衛を京都から名古屋へと招くなど、その後の精密機械の礎が築かれました。
尾張藩第7代藩主徳川宗春は、吉宗の倹約令に対抗して芝居小屋や遊郭を誘致するなど開放政策を採り「名古屋の繁栄に京がさめた」と謳われました。しかし、この開放政策は同時に藩の財政の悪化を招きました。宗春は幕府より謹慎を命じられ義直の直系は途絶えてしまいました。
近代化のつまづき
江戸時代の名古屋の町人の人口推移徳川幕府が崩壊し、明治時代が始まると名古屋の沈滞がしばらく続きます。
薩摩・長州閥で固められた新政府への人材登用もされませんでした。しかしもっとも大きな要因は明治政府の提唱する殖産興業という、制度改革や技術移転などの近代化政策に乗り遅れたことだと思います。
徳川御三家筆頭という特権に甘んじ、中央や諸外国との情報の途絶は、名古屋の発展に大きなマイナス要素をもたらしました。享保期(1716~1735年)には世界最大の百万都市に成長していた江戸と比較すると、名古屋開府時の人口7万人から幕末まで横ばいの状態が続きました。名古屋の経済発展の停滞がしのばれる数字でです。
江戸期から、外洋港を桑名や四日市に頼っていたことで、家内工業的な産業は存在しましたが政府が推進する近代的な産業は育たず、人口も微増の状態が明治中頃まで続きました。
インフラ整備による近代化
熱田湾の埋め立ての変遷明治19年(1886)5月、名古屋区長吉田禄在らの努力により東海道線の名古屋乗り入れが実現しました。近代都市としての名古屋は第一歩をふみだしました。また明治22年(1889)市制施行により名古屋市が誕生しました。
大型船の進入を許さなかった熱田沖の遠浅の海は、半田港から熱田まで通じる武豊線が敷設されたことでもわかるように、流砂も激しく港湾建設には適さないと考えられていました。
しかし浚渫技術の進歩もあり、明治29年(1896)名古屋港の第一期工事が始まり、明治40年(1907)には念願の名古屋港が開港しました。同時に埋め立て作業もおこなわれた熱田沖に広大な工業用地が造成されました。
海と陸のインフラ整備と名古屋台地周辺の平坦な産業用地は潜在的に眠っていた名古屋の「ものづくり」への技術力を開花させたのです。
日本陶器合名会社名古屋駅北西の則武に明治37年(1904)、日本陶器合名会社が、明治44(1911)には豊田佐吉が豊田自動織布工場を設立しました。
また、福沢桃介らによる豊富な木曽川水系の水資源を利用した水力発電は、繊維産業や陶磁器産業などに電力を供給し余剰電力は関西などにも供給されました。大正10年(1921)には名古屋港の外国貿易額も四日市港を超えるようになりました。「ものづくり」王国の基盤は着々と整っていきました。