名古屋市 - Network2010

名古屋市(愛知県)

河村市長、名古屋のアイデンティティを語る

http://www.youtube.com/v/QDlN1cUyBeg

― 名古屋の歴史とアイデンティティについて

やっぱり名古屋に住む人にとってすりゃね、やっぱり自分とこの都市の精神的支柱ですか、英語で言うとアイデンティティですか、そういうのがないといかんわね。
じゃあ何かいうと、やっぱり名古屋は武将いうか侍の町でしょうね。質素だけどね。なかなかのもんだったと思いますよ、御三家筆頭で。
だけど、それからいかなんだのは結局、暴れん坊将軍の吉宗に負けたがね将軍取りで。継友さんいう人が。まあ藩主だったんだけれども。あれからねぇ、どーも名古屋の人間がねぇ。
まぁ有名な話だけど、負けてその後、宗春さん、継友さんの弟か、出てきて、やったんですけど。これは宗春さんは、吉宗は倹約倹約いうときに、何とろいこといっとるいうことで、もっと楽しまないかんということになって、結局対立して、有名な話しで、蟄居を命ぜられて、その時についていったのが、うちの先祖がついてっとるんだけどね、これが。
藩主がそういうふうに蟄居を命ぜられる、墓に網まで被せられるいうことは、尾張藩自体もね、萎縮したと思われるんですね。
これはうちの死んだおふくろが言っとったんだけど、やっぱり江戸幕府とすると尾張は強いから御三家筆頭で、んで豊かなところだと、川があり、農業も、んだで、これは幕府の密偵ですわね、これがぎょうさん入っとった、とおふくろが言っとりましたよ。俺、今調べとんだけどなかなか出とらんのだけど。
尾張藩主であるということとか、尾張、名古屋の人間であるとういうことを若干隠すようになってまった。
ほんだもんで、この名古屋言葉もですね、綺麗とか汚にゃーとか言っとるんです。
何いっとるいうの、自分とこの、御三家筆頭の言葉を汚にゃーなんて自分で言っとる、話にならんちゅーんだわ。これは。
吉宗以来の怨念を晴らさないかん、これはあるんですけどね。

― 歴史的建造物の保存について

今UFJですけどね、あれの西角に、えー建物があったんだ大和生命、あそこにGHQ入っとった。あれもわし壊すな言うとった。壊してまった。あれは惜しかったですよ。
終戦直後の広小路本町交差点,中央のビルが大和生命ビル〔旧徴兵館〕(名古屋市広報課提供)終戦直後の広小路本町交差点,中央のビルが大和生命ビル〔旧徴兵館〕(名古屋市広報課提供)昔の空襲の焼けたときの写真見るとね、ぽーんと残っとるわけですよ。だからああいう建物は、まぁ物言わんでいかんけども、空襲の悲劇を見とるわけです。
名古屋の中にそういう、要するに昔のゆかりのある物を残していこう、いう雰囲気がなかったんやろう、全然。
これからそこの流れは大きく変わっていかなあかん、いうことでやっとんだけどね、わしは。

― 楽市楽座と庶民革命

武士というのは、江戸時代にちょっとえりゃー様になって貴族化したけど、本来は貴族に対抗する、庶民だったわけです。ほんだでわしが庶民革命言っとるでしょう。
今の政治の問題点は、いわゆる政治が貴族化したわけでしょ、はっきりいうと。
税金を安くすることですよ、政治の最大の課題は。やっぱり名古屋は市民税1割減るということがずーと波及していってね、やっぱ、庶民の自立いうたら信長の楽市楽座、武士の時代ですよ。
当時のね庶民の、それがこの辺のアイデンティティの中核にならんかと、いうのがわしの願いなんですけれど。
信長聞いとったら喜ぶと思いますよ、生きとったら。しゃべったことないからいかんけど。

(この文章は上のインタビュー動画から書き起こした内容です。)
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人口推移にみる名古屋開府400年の軌跡



豊臣方を見張る前線基地として誕生した名古屋城下
江戸時代の名古屋城下図江戸時代の名古屋城下図関ヶ原の合戦(1600)後の1610年、豊臣方に対する防衛上の前線基地として徳川家康によって名古屋城下が築かれました。熱田台地の北端に名古屋城を据え、木曽川・長良川・揖斐川を利用して西からの豊臣方の進軍を阻み、南の熱田は遠浅の海のため大型船の侵入を防いでいました。東側は家康の生誕地、岡崎へと街道が通じ、前線基地としては最適でした。名古屋城下は中山道・東海道といった主要街道が町中を通ることなく、外洋からも離れていたため、政治や商業の拠点として江戸のように飛躍的に発展することもないまま明治維新を迎えました。
明治4年(1871) に廃藩置県、翌明治5年(1872)愛知県は額田県を合併し、現在の愛知県が誕生しました。当時の人口は71,618人。清須越により名古屋城下が形成された当時の人口が6万余であったことを考えると、江戸時代を通じて顕著な人口の増加はみられませんでした。

名古屋港の埋め立てが重工業発展の契機に
明治時代に入ると新橋・横浜間、ついで神戸・大阪間に鉄道が敷設され、明治22年(1889)に東海道線が全通しました。明治19年5月1日(1886)沼地であった笹島に名古屋停車場が造られ、広小路が笹島まで拡幅、延長されました。明治22年10月1日(1889)、市制が施行。市制施行時の人口は157,496人、市域はおおむね現在の中区と東区にあたるものでした。
名古屋港の埋立遷移図名古屋港の埋立遷移図明治31年(1898)から明治40年(1907)にかけて、周辺の那古野村、古沢村、鳴海村が名古屋市に編入。明治40年(1907)には浚渫技術の発達にともない念願であった外洋港、名古屋港が開港しました。堀川は名古屋港まで延長され、堀川両岸に造成された広大な土地は将来の重工業の進出・発展を支える要因となりました。明治41年(1908)には、熱田町、小碓村を加えて中区、東区、西区、南区の4区政の実施に至りました。人口は374,146人、第10回関西府県連合共進会が開催された明治43年(1911)年には、40万人を超える都市へと成長を遂げました。

大正10年(1921)、千種町、東山村、中村町、愛知町、常盤村、御器所村、呼続町、笠寺村、八幡村、荒子村、小碓町、六郷村、清水町、杉村、金城村、枇杷島町の16町村が名古屋市に編入され、名古屋市の市域面積は東京市の2倍、人口は60万を超え東京・大阪につぐ全国第3位の大都市になりました。その後も人口は急増し、昭和元年(1926)には80万人を突破、100万都市もまじかと噂され、公会堂や中川運河の建設が行われました。

重工業発展を受けて100万都市へ
昭和2年(1927)の昭和金融恐慌勃発と昭和4年(1929)10月24日のニューヨーク株式市場の暴落をきっかけとした世界恐慌は未曾有のパニックを引き起こしました。名古屋経済も大きな打撃を受け、人口の伸びも停滞しました。しかし昭和7年(1932)年頃から外国貿易総額は上向きに転じ、昭和8年には過去最高の数字を残すまでになりました。景気回復した昭和9年(1933)、ついに100万都市の仲間入りをはたすことができました。
名古屋汎太平洋平和博覧会の時の名古屋イラスト地図名古屋汎太平洋平和博覧会の時の名古屋イラスト地図昭和12年(1937)、南部臨海地帯で名古屋汎太平洋平和博覧会開催され、それに伴って名古屋新駅や桜通、東山動植物園の建設などのインフラ整備がおこなわれました。
軍事費の増大による重工業、とりわけ航空機などの軍需関連企業の成長などにより、昭和16年(1941)の太平洋戦争勃発時年末の人口は1,379,738人と増大を続けました。
4年に渡る戦争は日本全国を疲弊させました。昭和20年(1945)に入ると、米軍による空襲が頻繁となり名古屋の中心部は焼け野原となりました。昭和20年(1945)11月11日時点の人口は597,941人に激減しています。

戦後復興し200万都市へ
名古屋城天守閣再建工事(写真提供:株式会社間組)名古屋城天守閣再建工事(写真提供:株式会社間組)戦後復興の苦難を乗り越え、朝鮮戦争の勃発した昭和25年(1950)、人口は100万人を超えました。進駐軍が完全に撤退した昭和34年(1959)9月、伊勢湾台風が上陸し、東海地方に大きな被害を与えました。被災にあった名古屋市民を活気づけたのは同年10月3日に完成した名古屋城天守閣再建工事でした。人口も150万人に迫り、昭和39年(1964)秋の東京東京オリンピックに向けて高度経済成長への一歩を踏み出しました。東京オリンピック時に1,906,831人に急伸した名古屋の人口は、そこをピークに微増に転じ、昭和44年(1969)になり、やっと200万人を越えました。

“ものづくり”で知られる名古屋は、2005年に博覧会史上で始めて環境をテーマとした愛知万博を経験し、“ものづくり”と環境と文化が調和した中部の核都市としての発展が期待されています。

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