椿寺
俗名は時代の流れを反映している。栄町の角から松坂屋に向けての南大津通りを、ティシュ通りと呼ぶ人がいる。地下街から地上に出ると、すぐにティシュを渡されるからだ。 今は休眠状態だがナナちゃん人形も世相を反映した俗名だ。駅前で人と待ち合わせをする場合、ナナちゃん人形の前といえば、すぐにその場所を特定することができる。
新しい時代の流れのなかで誕生した俗名がいつしか市民権を得る。そしてその俗名は広く流布する。女子大小路などは、その典型的なものであろう。女子大小路は夜、眠らない街だ。ネオンがまたたき、カラオケで歌う声がどこからともなく聞こえてくる。
女子大と不夜城の街が、どのような関係があるか。それは、現在の東急ホテルの地に、中京女子大学があったからだ。内木学園の経営する学校が、大阪の谷岡氏にと経営が変わった。学校も、この地を去り、高校は東区、大学は大府市にと移っている。
バブル全盛の頃の女子大小路の賑わいは、すさまじいものがあった。忘年会の頃などにタクシーに乗り、女子大小路を通り抜けようとすると三十分近くもかかった。今思えば、それはうたかたの夢であった。
女子大小路の西の端、武平町通りを南に向けて歩いてゆく。ビルに挟まれた中に、由緒のある寺が建っている。室町時代に創建されたという金剛寺だ。この寺は戦災にあい、杉の町筋から、この地に移ってきた。
『金鱗九十九之塵』によれば、筋名の杉の町は、堀川にかかる中橋から高岳院の門前に至る長い筋であった。杉の町筋の由来については、金剛寺の門前の山林に、杉の大木が茂っていたので杉の町筋と名づけたとしている。 杉の町筋の中心が万屋町だ。
万屋町は清須越の当座は二丁目と呼ばれていた。二丁目は寛文元年(一六一六)に松屋町と改称される。改称の理由は、町名にある金剛寺の門の前に古松がそびえていたからだ。宝永五年(一七〇八)に、さらに万屋町と町名は変わる。三代藩主綱誠の娘、松姫が将軍綱吉の養女となったので、松の字の町名は恐れ多いという理由だ。
杉の町筋、松屋町の名前の由来となった金剛寺は、もともとは中島郡日下部村(稲沢市)にあったが、慶長年間(一五九六~一六一五)に、御園通りと伏見通りにはさまれた、杉の町筋の南側の地に移ってきた。
開基の山堂首座は、明応四年(一四九五)八月、摂津の国に生まれた。織田信長より寺領を拝領した関係で、信長の五十年の年忌を、自分の手で執り行なうことを念願としていた。寛永八年(一六三一)に念願の信長の遠忌法要をすますことができた。遠忌を終えると山堂首座は、いずこともなく飄然と行脚の旅に出かけてしまった。その時、百三十六歳であったが、いたって達者であったという。
金剛寺の境内に入ってゆく。参道の両側には、松や杉ならぬ椿の木が何十本も植えられている。椿の種類は一様ではない。内外をとわずあらゆる種類の椿の木が植えられていて、花の時期には、異なった種類の椿の花が、次から次にと花を開かせる。甘い花の香りが境内にただよう。金剛寺は椿寺だ。
地図
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