御坊様
東別院は広大な敷地の中に建立されている。参拝客が自由に出入りできる表門と異なり、裏手に回ると、およそ寺とは不似合いな堅牢な石垣作りになっていて、一歩も人を寄せ付けないような構えになっている。城郭のようないかめしい造りになっているのは、東別院が城跡に建てられているからだ。
天文三年(一五三四)織田信長の父親、信秀が建立した城の跡地に、元禄三年(一六九〇)藩主より土地を賜わり別院の建立は始まった。落成したのは元禄十五年(一七〇二)のことだ。その後、百年の歳月が経ち建物の破損箇所があまりにも目立つようになり再建の計画が起こった。文化二年(一八〇五)本堂再建の手斧式が行われた。 工事がいかに大掛かりなものであったか、この工事が名古屋の人々の関心をいかに惹いたか、高力猿猴庵は日記の中に度々記している。 手斧式が行われた翌年の文化三年(一八〇六)、十二月の日記には
東掛所(東別院)再建の材木、大木を海上より、船廻しにして堀川山王横町の河岸、木場に成、山王横町地形やわらかなる故、大松の敷木をして、東輪寺門前へ筋違に車道を出来し、茶屋町へ引出す。此節、追々、材木水上にて、諸同行、老若男女、綱を引、木やり歌にて賑合。
と記している。 この記事には、東別院再建の材木が、どのようにして運ばれてきたかが記されていて興味深い。熱田の海から堀川を上り、材木は山王神社の裏手の河岸に運ばれる。そこに木場(貯木場)が出来あがる。土地が柔らかい所は、大きな松を下に敷き、材木が運び易いようにする工夫がなされた。山王横町から東輪寺門前まで、材木を運ぶために斜めに道が出来あがった。賑やかに木遣り歌を歌いながら綱を引く行列が続いた。
大きな材木を移動させる時には、大勢の人力を必要とする。それぞれがばらばらに力を発揮していては、危険であるし、能率も上がらない。材木を移動させる指揮者が木遣りの音頭を取り、他の人全員が受け手となって音頭に答える。材木の大きさ、重さ、作業者の能力などを指揮者は計算に入れ、木遣り歌によって、材木が円滑に運ばれるような工夫をした。即興の木遣り歌によって、明るく、楽しく材木が運んででいける。辛い労働も歌によって忘れることができた。 音頭によって指揮者は作業の動作を指示した。指揮者の音頭によって重い材木を手際よく運んでいくことができる。 文化六年(一八〇九)の記事には、
十七日、東掛所再建の材木、遠州より出せる大松 さし口(木の横の面に他の木を取り付けるため掘った穴)五尺計 堀川木場より是を引に、雨後にて地形悪敷故、車埋り、少しも動ず。幸、角力取等、茶屋町に遊び居しが、此事を頼れ、六、七人行、材木車を何の苦もなく、掛所迄引来由。大勢ニ而動きかねし大材を、安々と引事、角力取りの力、かんしん也。
とある。 材木を積んだ車がぬかるみにはまり、動かなくなってしまった。幸い相撲取りが近くの茶屋町で遊んでいる。頼みこむと直ぐに駆け付けて、引いてくれた。 この日、材木を引いた関取が誰であるかを猿猴庵は記していない。文化六年の相撲番付を見てみると大関に柏戸と雷電、関脇は鬼面山と玉垣がつとめている。名古屋には、この時雷電は来ていなかった。猿猴庵は力士が簡単に荷車を押した事を「角力取の力、かんしん也」と褒めたたえているだけである。
名古屋の相撲は、茶屋町の大乗院で興行が行われた。物見高いは江戸っ子ばかりではない。文化六年から遡ること数年前の天明四年(一七八四)八月の日記に猿猴庵は、相撲が名古屋の町でいかに人気が高かったかを記している。
大乗院にて、相撲興行。古今希成ル名ある角力取共来りて、殊更繁盛なり。中にも小野川・鬼面山・谷風等、何れも名代の大男也。惣而此度の役角力分にて、各六尺余の男多し。門前丁辺より茶屋町までの間は、此男どもを見むとて、毎日両がわに立ちならびて、往来の老若男女、実に市をなすといふべし。当時日本に無双の大角力なりと沙汰有り。
この記事のように、何人かかっても動かない荷車をいとも簡単に引いていく、相撲取りに対して、これを見ている人々はやんやの拍手を送ったであろう。 文政二年(一八一九)七月二十八日には、虹梁(仏閣の彫刻や彩色を施した大きな梁)が堀川を上がり、木場に着いた。猿猴庵は、その日の様子を次のように記している。
廿八日 晴 掛所へ大虹梁のけやき 長八間巾四尺を、堀川端の材木場より引。昨廿七日、木曽より堀川に着。東の河岸へ揚て、おにかみ車二輛に乗せ有り。見物夥し。今日早朝、右の木を新橋(尾頭橋)迄引下げ、佐屋海道を本町通りへ引上る。遠近の見物、群衆也。町・在の諸講中、幟をさし先に立、両綱の長さ三丁余、信心の男女是を引く。未の下刻、掛所へ入る。但し、此れ木引の跡より、松板を車に積て引行。此板は、道筋のくぼみある所、高引くだくぼく(でこぼこ)の所に此板を敷並べ、道を直にして車を通すためなり。新橋には、さまざまな辻商人多く出る。其外、道々にも多し。
虹梁の大木を見物する群衆が新橋に押し掛ける。辻商人(道端で商売をする人)が大勢出ている。東別院の再建工事が、いかに名古屋の人々の関心と興味を集めていたかがわかる。 文政五年(一八二二)十一月一日に上棟式が行われた。この日、夥しい人数が、別院に集まった。上棟式に付き物の餅投げもけが人の出ることを憂慮して中止になった。 寄進された餅は本堂の真ん中に積み上げられた。それは七間四方、高さ七尺になったという。
文政六年(一八二三)の十一月十五日に入仏式が行われた。十六、十七の両日には供養が行われた。その賑わいは上棟式にまさるとも劣らないものだった。 当時の人々の東別院に対する帰依が深かったことを猿猴庵の日記によって知ることができる。
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