山田天満宮
千種区の上野天満宮、中区の桜天神社とともに、受験シーズンともなると合格祈願の受験生の姿が狭い境内の中に多くみられる。
東風吹かば匂おこせよ梅の花
あるじなしとて春な忘れそ
配流の地・太宰府で、都をしのんで詠んだ菅原道真の歌にちなんで、植えられた梅の古木には、受験生が合否をうらなって引いたのであろうか、おみくじが何本も結ばれている。
桜天神社は、織田信秀が天文年間(一五三二~一五五五)に北野天満宮から勧請して建立されたものだ。山田天満宮は、初代藩主徳川義直の命によって建立されたものだ。尾張藩の学問祈願所として、江戸時代も現代も変わらず学問成就を祈る人々でにぎわった。
山田天満宮は山田天神とも呼ばれている。天神は菅原道真の神号、道真を火雷天神とする信仰が起こり、京都に北野天満宮が創建された。いつしか火や雷を守る神様から学問の神様に天満宮は変わってきた。境内にある牛も、合格を祈る多くの人々の手によって、なでられ黒光りがしている。
国道十九号の矢田川に架かる橋を天神橋という。
天保年間(一六三〇~一八四四)のことだ。守山区瀬古の高牟神社に、承久の乱で討ち死にをした山田重忠が奉納したと伝えられている菅原道真の画像が大切にしまわれていた。金策に窮した神社の禰宜が山田の庄の質屋に、その画像を入れてしまった。禰宜は金の都合がつかず、画像は質屋の所有するところとなってしまった。
明治時代になって、瀬古の高牟神社の氏子より画像は、村の宝であるから返却してほしいという訴えが出された。明治五年、裁判により半年間は、高牟神社に、半年間は山田庄の質屋・大坂屋で画像を保有する事になった。
天神様(菅原道真)の画像が矢田川を越えて、瀬古と山田とを半年毎に往来したので、橋の名前を天神橋と名づけられたという。
地図
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