観音寺
いかにも下町といった風情のただよう下飯田の町の中に、ひっそりとたたずんで建っている観音寺の歴史は古い。『北区誌』(昭和三十九年刊)には、「むかしは安国寺といって、聖武天皇が国家安穏、諸民の安福祈願のために建てられた安国寺の一つであるといわれている」と記されている。後醍醐天皇の時代には、勅命によって国家鎮護、玉体安穏を祈願させる勅願寺となって壮大な伽藍を誇った。
後醍醐天皇は、戦いにあけくれる動乱の時代に生きた帝だ。自らの帝としての地位の安泰を祈願させる寺を各地に数多く置かれた。後醍醐天皇と対峙した足利尊氏・直義も国家鎮護のための安国寺を日本六十余州の国ごとに建てさせた。聖武天皇が勅願によって建立された国分寺のひそみにならったものだ。
安国寺と呼ばれていた観音寺の境内に立つとき、その歴史とかかわりの深い聖武天皇、後醍醐天皇の不安と動揺が伝わってくるような感じにおそわれる。
南北朝時代より数度の火災によって、さしも壮大な伽藍も、しだいに衰微していった。江戸時代には、徳川家康の法名が「東照宮安国院殿徳蓮社崇誉道和居士」であるため、観音寺と寺名が改められた。本尊の子安観世音は、行基が熱田の宮で刻んだ三体の一つと伝えられている。
境内の東側に水鉢が置かれている。ふつうの水鉢と異なっているのは、観音寺の水鉢には、小さな穴が幾つもあいている。むかし、村の子どもたちが、よもぎなどの草を摘んできて、この小さな穴に入れて石でたたき、草もちを作ったということだ。
村の人々の生活の中に入っている寺であることが、水鉢ひとつをとってもうかがい知ることができる。
地図
より大きな地図で 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」 を表示