鎌塚
『那古屋府城志』には、義次塚、為朝塚、山伏塚、鎧塚、力子塚(金塚)、片葉塚、鎌塚を古渡七塚としてあげている。 『俳諧古渡集』は、古渡七塚を次のように説明している。
惣して此むらに、七塚有といひ伝へたり、為朝塚、山ふし塚、よろひつか、かねつか、景清塚は今尾頭町に分れりといへとも、元興寺桟門の跡とて、尾頭山の号をもて、今町の名とす。其外古墳は所所にあれども、定か成事を知らず、いか成有徳の人の印にやなつかし。
なつかしや露に築たるつかの草
『那古野府城志』に紹介されていて、『俳諧古渡集』に紹介されていない塚は、片葉塚と鎌塚である。義次塚は、独立させて一つの項目をつくり、その塚の説明をしている。為朝、義次、あるいは山伏塚は、その人を葬った塚だ。金塚は元興寺の金鶏伝説にからませて作られた塚だ。『俳諧古渡集』にもれている二つの塚は、何のために作られた塚か判然としない。片葉塚は、それでも片葉の葦が生えていた所の標というのであれば、塚を築いた理由が首肯できる。しかし、鎌塚となると何のために築かれた塚なのか、全く見当がつかない。金山の社近くは、優秀な鍛冶職人が何人もいた、鍛冶屋が作る代表的な農具・鎌を埋めて、そのすぐれた仕事を顕彰したのであろうか。
『金鱗九十九之塵』には、次のような記述がある。
金山の森 一ケ名、鍛冶屋が森といふ。 熱田御修理職の鍛冶尾崎彦四郎の祖、代々ここに住けるが、往昔承和の頃屋敷内に勧請せしに、応永年中大宮司の命により、中瀬町に移住せしかど、猶是を守りていささかなる社なりしを、近年名古屋の鍛冶又鋳物商売の者より、修復を加へて花麗なる社となれり。又金山の南にゐもじと呼ぶ畑あり。按ずるにここも、又御修理の鋳物師の住つらんか。字名にのこりたる成べし。
金山の社の周辺にいかに鍛冶屋や鋳物師がいかに多く住んでいたかがわかる。あるいは、塚を築き鎌を祭ることによって豊作の祈願をしたのであろうか。 『那古野府城志』には
東田面野田と云田中にあり。
と鎌塚の所在地を記している。野田の田圃の中に築かれている塚であるだけに、農作業との関連も考えられる。 東田面の野田は現在の平和二丁目の地内である。
地図
より大きな地図で 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」 を表示