沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第1講 古渡七塚めぐり 第7回「山伏塚」

山伏塚

榊の森、鶯の森と呼ばれていた金山の白山神社

榊の森、鶯の森と呼ばれていた金山の白山神社

『那古野府城志』には、山伏塚を次のように記している。

昔、刑罰に逢し跡の印となん。町家と畠の境に小さき塚あり。印に榎一本残れり。或時主じかしこそたち、爰を切、塚を縮めける夜、俄に大熱に犯され、きびしき祟りあり。やがて塚に向ひ、香花灯明を捧げ降参しければ忽止ぬと也

誅殺された山伏を埋めた塚を、その土地の所有者が耕したところ、たちまち大熱を出して寝こんでしまった。塚に香花を捧げ、灯明をあげたところ平癒したという意だ。

山伏塚は、古渡の地の他、長久寺にも築かれていた。長久寺に山伏塚が築かれた由来が、『袂草』に載っている。

長久寺筋西取附北側、竹腰門太夫屋敷裏に山伏塚あり。是はむかしある山伏、敵のねらふよしを知りて此家にかくまひ貰い居しが、程経て後に今はねらふまじくと思ひ、大晦日の夜無余儀用事ありて、町辺まで出しが、夜更けても帰らず、竹腰もいかがと案じ居しが、何のさたもなし。翌元朝、竈の植えに右山伏の首、今切られたる如きが乗り在りければ、偖は夜前、終に敵に討たれたるものならんと察して、其首を裏に埋めて塚を築きしとぞ。

竹腰門太夫の屋敷に匿われていた山伏が、大晦日の夜、どうしても断ることができない用事が出来て町にでかけた。そこを敵にねらわれ首を落とされてしまった。その首が、元旦の朝、竹腰門太夫の屋敷の竈の植えに置かれていた。門太夫は、その首を埋め塚を築いたという意だ。

古渡の山伏塚が、塚を暴くと祟りがあるという教訓的な色合いが強いのに対し、長久寺の山伏塚は、おどろおどろしい由来話になっている。 竹腰門太夫の屋敷に築かれた山伏塚を、長久寺の山伏塚としたのは、『金隣九十九之塵』に、

山伏塚古跡、境内にあり

とあるからだ。

白山神社境内

白山神社境内

古渡の山伏塚は、「新町裏にあり」と『那古野古城志』には記されている。その地は、榊森の白山神社のあった小丘に特定できよう(千種・東・中区の考古遺跡)。長久寺の山伏塚は、白山屋敷と称された空地の中にあった。古渡の山伏塚も白山神社に所在するという共通点は、白山信仰と山伏との関連を表すものであろうか。

白山神社のある地は、榊の森、鶯の森と呼ばれた。『金隣九十九之塵』には、

当社は榊の社とあり、これは上代禁庭に新嘗会有し節、此社より榊を献ずる故に此号あり。又此森は榊の名木相生にて、しかも連理の枝なるありと云り。 累年四月十七日、東照宮の御祭礼に用る榊は、此処より奉るなり。

榊森御祭神

榊森御祭神

相生の連理の枝の生い繁る、榊の森に鎮座する白山の宮から禁庭に新嘗祭に献上する榊も、東照宮の祭礼に使用される榊も、白山の宮の榊が使われたのであった。 この榊の藻他に景清の屋敷があったという記事が『那古野附城志』に載っている。

榊森、若しくは景清屋敷の事を云乎。

と記し、さらに景清塚が榊の森の近くにあったことを述べている。

尾頭の町東に年古し松五六本あり。いまは近き辺りに墓所となる。俗呼て法華三昧と云、 盲ても、なお頼朝の生命をつけねらう平景清。その隠れ家が、熱田区の景清神社や熱田神宮の地の他に、この地にもあったのだ。

地図


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